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第八章

自分の地図

木村のみかんは、十個入っていた。

一人で食べきれないと思った。

誠は三個を隣の席の田所さんに渡した。

田所さんは経理の五十代の女性で、誠とほとんど話したことがなかった。

「あら、いいの?」

「もらいすぎたので」

「じゃあ、お返しに」

田所さんは引き出しから飴を一つ出した。

「たいしたものじゃないけど」

誠は飴を受け取った。

これでいい。

大げさなことは何もなかった。

でも、田所さんがその日の夕方、誠に声をかけてきた。

「田中くん、経費精算のやり方、わからなくて困ってたんだけど、教えてもらえる?」

「あ、あれ、わかりにくいですよね。五分で教えられます」

五分で教えた。

田所さんは何度もお礼を言った。

みかん三個から、始まった。


その夜、誠はノートを開いた。

日記は書いたことがなかった。

でも今日は、何か書きたかった。

書いたのは、一行だけだった。

見える範囲で、できることをやる。

それだけ書いて、閉じた。


昼休み。

眞子は窓際にいた。

誠は向かいに座った。

「みかん、配りました」

「どうだった?」

「田所さんと初めてちゃんと話しました」

眞子は少し笑った。

「それだよ」

「何がですか」

「コミュニティ」と眞子は言った。「お金を介さない繋がり。それが主権を取り戻す、一番地に足のついた方法」

誠はコーラを飲んだ。

「大げさですね、主権って」

「大げさじゃないよ」と眞子は言った。「田中くん、住民税58万に怒ってたよね」

「怒ってました」

「あれ、取り返せる?」

「取り返せないですよね」

「そう。でも」と眞子は言った。「お金を使わずに解決できることが増えるたびに、取られる量が減る。田所さんに経費精算教えたこと、お金に換算したら何円?」

誠は少し考えた。

「わかんないですけど、まあ、何千円かは」

「その何千円分、田中くんはお金を使わずに価値を交換した。税金は取れない。手数料も取れない。誰も間に入れない」

誠は黙った。

「小さいですよね」と誠は言った。

「小さい」と眞子はあっさり言った。「でも、小さいことしか、自分の手の中にない」

「大きいことは?」

「大きいことは、誰かの手の中にある」

誠は窓の外を見た。

晴れていた。

「眞子さん」

「うん」

「世界の仕組みとか、税金の構造とか、全部知っても、結局やることは小さいことなんですね」

眞子は弁当箱を閉めた。

「コナンくんはね」と眞子は言った。「事件の全体が見えてても、一つ一つの証拠を丁寧に拾うでしょ」

「拾いますね」

「それだよ」

チャイムが鳴った。

二人は立ち上がった。

今日は、誠が先に社食を出た。

眞子は少しだけ、その背中を見ていた。

ちゃんと、地図を描き始めてる。


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