木村のみかんは、十個入っていた。
一人で食べきれないと思った。
誠は三個を隣の席の田所さんに渡した。
田所さんは経理の五十代の女性で、誠とほとんど話したことがなかった。
「あら、いいの?」
「もらいすぎたので」
「じゃあ、お返しに」
田所さんは引き出しから飴を一つ出した。
「たいしたものじゃないけど」
誠は飴を受け取った。
これでいい。
大げさなことは何もなかった。
でも、田所さんがその日の夕方、誠に声をかけてきた。
「田中くん、経費精算のやり方、わからなくて困ってたんだけど、教えてもらえる?」
「あ、あれ、わかりにくいですよね。五分で教えられます」
五分で教えた。
田所さんは何度もお礼を言った。
みかん三個から、始まった。
その夜、誠はノートを開いた。
日記は書いたことがなかった。
でも今日は、何か書きたかった。
書いたのは、一行だけだった。
見える範囲で、できることをやる。
それだけ書いて、閉じた。
昼休み。
眞子は窓際にいた。
誠は向かいに座った。
「みかん、配りました」
「どうだった?」
「田所さんと初めてちゃんと話しました」
眞子は少し笑った。
「それだよ」
「何がですか」
「コミュニティ」と眞子は言った。「お金を介さない繋がり。それが主権を取り戻す、一番地に足のついた方法」
誠はコーラを飲んだ。
「大げさですね、主権って」
「大げさじゃないよ」と眞子は言った。「田中くん、住民税58万に怒ってたよね」
「怒ってました」
「あれ、取り返せる?」
「取り返せないですよね」
「そう。でも」と眞子は言った。「お金を使わずに解決できることが増えるたびに、取られる量が減る。田所さんに経費精算教えたこと、お金に換算したら何円?」
誠は少し考えた。
「わかんないですけど、まあ、何千円かは」
「その何千円分、田中くんはお金を使わずに価値を交換した。税金は取れない。手数料も取れない。誰も間に入れない」
誠は黙った。
「小さいですよね」と誠は言った。
「小さい」と眞子はあっさり言った。「でも、小さいことしか、自分の手の中にない」
「大きいことは?」
「大きいことは、誰かの手の中にある」
誠は窓の外を見た。
晴れていた。
「眞子さん」
「うん」
「世界の仕組みとか、税金の構造とか、全部知っても、結局やることは小さいことなんですね」
眞子は弁当箱を閉めた。
「コナンくんはね」と眞子は言った。「事件の全体が見えてても、一つ一つの証拠を丁寧に拾うでしょ」
「拾いますね」
「それだよ」
チャイムが鳴った。
二人は立ち上がった。
今日は、誠が先に社食を出た。
眞子は少しだけ、その背中を見ていた。
ちゃんと、地図を描き始めてる。