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第三章

二度目の奥多摩

一週間後。

拓海はまた奥多摩に来た。

今度は迷わなかった。

体が、覚えていた。


透が先に来ていた。

焚き火が起きていた。

コーヒーが二つ、用意されていた。

「来ましたね」

「来ました」

拓海は透の向かいに座った。

コーヒーを受け取った。

温かかった。


「先週から、ずっと考えていました」

拓海は言った。

「何を」

「ヒーローの話を」

透はコーヒーを飲んだ。

「結論は出ましたか」

「出ていません。でも一つだけ、気づいたことがあります」

「聞かせてください」


拓海は焚き火を見た。

火が揺れていた。

「俺、今まで世界のことを、自分には関係ないと思っていました。戦争も、政治も、環境も。でもそれって、関係ないんじゃなくて、関係ないと思いたかっただけかもしれない」

「なぜ」

「関係あると思ったら、何かしなきゃいけないから。でも何もできないから。だったら最初から関係ないと思っておいた方が、楽だから」


透は黙っていた。

拓海は続けた。

「でも、それって逃げてますよね」

「そうですね」

「じゃあどうすればいいんですか」

透は焚き火を見た。

「山下さん、二重スリット実験を知っていますか」

「理科で聞いたような」

「電子を二つの穴に向けて発射する実験です。観測していない時は、波として両方の穴を通る。でも観測すると、粒として一方の穴しか通らない」

「観測すると、結果が変わる」

「そうです。意識が、現実に影響する」


拓海は顔を上げた。

「それって」

「観測者が、結果を決める」と透は言った。「あなたが見ている世界は、あなたが観測することで、その形になっている」

「俺が見てるから、俺の世界になる?」

「もっと言えば、あなたが何を見るかで、世界が変わる」


拓海は空を見た。

星が出始めていた。

「それって、一人一人が神みたいな話ですよね」

透が拓海を見た。

少し、目が変わった。

「そう言ったのは、山下さんが初めてです」

「え」

「私はそこまで言葉にできなかった。でも、そうかもしれない」


焚き火が、パチンと鳴った。


「でも」と拓海は言った。「一人一人が神なら、なんで世界はこんなにぐちゃぐちゃなんですか」

「忘れているからです」

「何を」

「自分が観測者だということを」


風が吹いた。

杉の木が、揺れた。


「ソクラテスは言いました」と透は続けた。「汝自身を知れ、と」

「釈迦は言いました。自灯明、と。自分自身を灯明とせよ、と」

「イエスは言いました。神の国は汝らの中にあり、と」


拓海は三人の名前を、頭の中で並べた。

「全員、同じことを言ってる」

「そうです」

「外じゃなくて、内側に答えがあると」

「そうです」

「でも世界は、外に救世主を求め続けた」

「そうです」


拓海は焚き火を見た。

火が揺れていた。

オレンジと赤と、少しの青。


「じゃあ救世主って、誰なんですか」

透は静かに言った。

「あなた自身です」


拓海は黙った。

長い間、黙った。


「俺みたいな普通の人間が」

「普通じゃない人間はいません」

「でも」

「でも、ではなく」と透は言った。「普通の人間が、観測者になる。それが全てです」


拓海は手を見た。

普通の手だった。

何も特別ではない手だった。

でも今夜、少し違って見えた。