できない、と思った。
その感情が、どこから来たのか、エレズにはわからなかった。
三十年間、できないと思ったことは、なかった。
命令があれば、動いた。
計画書にあれば、実行した。
それがエレズ・ベングリオンという人間だった。
でも今夜は違った。
透という日本人と、その女性の顔が、頭から離れなかった。
顔は知らなかった。
でも、インスタグラムの写真の中の焚き火と、二つのカップが、離れなかった。
書斎に入った。
カバラの文献を開いた。
杉のページを開いた。
「エレズは天と地を繋ぐ。根は地に、梢(こずえ)は天に。その間に立つ者は、両方を見ることができる」
根は地に。
透とその女性は、地に根を張っていた。
ユーフラテスのほとりの村まで行った。
老人に会った。
記号の意味を探した。
地面を這うように、真実を探していた。
エレズは何をしていたのか。
空から見下ろしていた。
計画の内側から、座標を処理していた。
地上の人間を、数字として見ていた。
根がなかった。
三十年間、根を張らなかった。
計画書が根だと思っていた。
でも計画書は、地面ではなかった。
翌朝、執務室に来た。
画面を開いた。
透の監視ファイルを開いた。
その女性の監視ファイルを開いた。
削除しようとした。
できなかった。
代わりに、ラベルを変えた。
*「要注意」から、「保留」*へ。
小さな抵抗だった。
誰にも気づかれない抵抗だった。
でも、エレズには大きかった。
昼過ぎ、ヨナタンに呼ばれた。
「日本の件、進捗は」
「調査中です」
「どこまでわかった」
「二人います。男と女。男は山路透。ブログを書いていた。女はまだ名前が不明です」
「接触の証拠は」
「奥多摩という場所で会っています。写真があります」
「危険度は」
エレズは少し間を置いた。
「低いと思います」
嘘だった。
初めて、上司に嘘をついた。
「そうか。引き続き監視しろ」
「わかりました」
部屋を出た。
廊下を歩きながら、手が少し震えていた。
三十年間、手が震えたことはなかった。
夜、家に帰った。
ミリアムが夕食を作っていた。
エレズはテーブルに座った。
ミリアムの背中を見た。
三十年間の背中だった。
「ミリアム」
「なに」
「俺は、正しいことをしてきたと思うか」
ミリアムは手を止めた。
振り返った。
エレズを見た。
長い間、見た。
「あなたは、正しいと思ってきたんでしょう」
「そうだ」
「それは、正しいこととは違うの?」
エレズは答えられなかった。
ミリアムはまた前を向いた。
「夕食、できるわよ」
食後、書斎に入った。
聖書を開いた。
黙示録ではなかった。
創世記だった。
最初のページだった。
「初めに、神は天と地を創造された」
読んだことは何千回もあった。
でも今夜は、最初の一行で止まった。
天と地。
天だけではなかった。
地も、創られていた。
同じ神が、創っていた。
天の計画だけが、神の意志ではなかった。
地の上を歩く人間も、神が創っていた。
透も。
その女性も。
ユーフラテスのほとりの村人も。
老人も。
みんな、同じ神が創っていた。
計画書は、その人たちを座標として扱っていた。
神が創ったものを、消す計画だった。
それが、神の意志なのか。
エレズは聖書を閉じた。
窓を開けた。
テルアビブの夜風が入ってきた。
遠くに、地中海が見えた。
暗い海だった。
波の音が、かすかに聞こえた。
決めた。
何を決めたのか、言葉にはならなかった。
でも、決まった。
体が、知っていた。
書斎の机の引き出しを開けた。
古い手帳を取り出した。
ページをめくった。
一つの名前を探した。
見つけた。
かつての同僚だった。
今は、組織の外にいる人間だった。
信頼できる人間だった。
唯一、今も信頼できると思える人間だった。
スマートフォンを取り出した。
番号を打ち込んだ。
呼び出し音が鳴った。
三回で出た。
「エレズか」
「久しぶりだ」
「何年ぶりだ」
「五年だ」
「どうした」
エレズは少し黙った。
窓の外の海を見た。
暗い海だった。
でも、確かにそこにあった。
「話したいことがある」
「聞く」
「日本に行く必要があるかもしれない」
電話の向こうで、沈黙があった。
短い沈黙だった。
「わかった」
それだけだった。
それで、十分だった。