成田空港は、混んでいた。
エレズには、空港はどこも同じに見えた。
人が歩いていた。アナウンスが流れていた。売店で何かを売っていた。
世界中の空港が、同じだった。
でも、外に出ると違った。
六月の日本の空気は、湿っていた。
テルアビブとは全然違った。
緑の匂いがした。
エレズは少し立ち止まった。
知らない匂いだった。
でも、嫌いではなかった。
ホテルはチェックインだけして、すぐに出た。
時間がなかった。
ヨナタンには、別の調査があると言って来ていた。
本当のことは言えなかった。
言える立場ではなかった。
まだ。
東京の街を歩いた。
地図を見ながら歩いた。
目的地は決まっていた。
透のブログに、一度だけ出てきた喫茶店の名前があった。
奥多摩の最寄り駅の近くだった。
行けば何かわかるとは思っていなかった。
でも、地上から始めようと思った。
根から始めようと思った。
喫茶店は、小さかった。
木の扉だった。
窓から、老いた店主が見えた。
入った。
カウンターに座った。
コーヒーを頼んだ。
店主は無口だった。
エレズも黙っていた。
コーヒーが来た。
飲んだ。
苦かった。
テルアビブのコーヒーとは違う苦さだった。
悪くなかった。
しばらくして、店主が言った。
日本語だった。
エレズは日本語が少し話せた。
「遠くから来たんですか」
「イスラエルから」
店主は少し驚いた顔をした。
「珍しい」
「この店に、よく来る客を探しています」
「どんな人ですか」
「三十代の男性。透という名前かもしれない」
店主はコーヒーカップを拭いた。
しばらく拭いていた。
「知りません」
嘘だとわかった。
三十年間、嘘を見抜いてきた。
でもエレズは追わなかった。
「そうですか」
コーヒーを飲み終えた。
金を払った。
立ち上がった。
扉を開けたところで、店主が言った。
「その人を、どうするつもりですか」
エレズは振り返った。
店主はカウンターの向こうで、じっとエレズを見ていた。
老いた目だった。
でも、鋭かった。
エレズは少し考えた。
正直に言おうと思った。
「守りたいと思っています」
店主はまた、カップを拭き始めた。
「明後日の朝、もう一度来てください」
それだけ言った。
ホテルに戻った。
窓から東京の夜景を見た。
光が多かった。
テルアビブより多かった。
でも、同じ光だと思った。
同じ人間が、同じように夜を過ごしている光だった。
スマートフォンを見た。
ヨナタンからメッセージが来ていた。
「日本の件、進捗を報告しろ」
エレズは画面を閉じた。
今夜は、答えなかった。
初めて、答えなかった。
二日後
喫茶店に行った。
同じ時間に行った。
店主は奥に引っ込んだ。
しばらくして、扉が開いた。
男が入ってきた。
三十代だった。
背が高かった。
静かな目をしていた。
エレズを見た。
警戒していた。
当然だった。
「山路透さんですか」
男はすぐには答えなかった。
エレズを見た。
長い間、見た。
「あなたは誰ですか」
「エレズ・ベングリオンです」
「イスラエル人ですか」
「そうです」
透はカウンターに座った。
エレズの隣ではなく、一つ空けて座った。
「なぜ私を探したんですか」
エレズは正直に言おうと思った。
ここまで来て、嘘をつく意味はなかった。
「あなたを監視していました」
透の目が、変わった。
「モサドですか」
「そうです」
「やっぱり」
透は小さく笑った。
驚いていなかった。
「気づいていましたか」とエレズは聞いた。
「薄々。でも、会いに来るとは思わなかった」
「私も、来るとは思っていなかった」
コーヒーが二つ来た。
店主は何も言わなかった。
透が先に口を開いた。
「何をしに来たんですか」
「話したいことがあります」
「何を」
「遺跡の話です。天の門の話です」
透はコーヒーカップを持ったまま、止まった。
「知っているんですか」
「作ったのは、私たちです」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
店主がカップを拭く音だけがあった。
透が言った。
「なぜそれを、私に話すんですか」
エレズは窓の外を見た。
六月の東京の空だった。
曇っていた。
でも、光があった。
雲の向こうに、確かに光があった。
「三十年間、間違えていたかもしれないと思ったからです」
透はエレズを見た。
長い間、見た。
さっきとは違う目だった。
警戒ではなかった。
「エマにも、会ってもらえますか」と透が言った。
「絵馬という名前の女性ですか」
「知っているんですか」
「監視していましたから」
透はまた、小さく笑った。
「彼女は怒るかもしれない」
「構いません」
「本当に、守りたいと思っているんですか」
エレズは透を見た。
「はい」
「なぜ」
エレズは少し考えた。
それから言った。
「同じだと、思い始めたからです」
透はコーヒーを一口飲んだ。
「老人と同じことを言う」
窓の外で、雨が降り始めた。
六月の雨だった。
静かな雨だった。