疑問は、翌朝には消えていた。
そういうものだ、とエレズは思った。
夜は感傷的になる。
朝になれば、仕事がある。
仕事をすれば、疑問は消える。
三十年間、そうやってきた。
四月になった。
停戦交渉が始まった。
エレズの仕事は増えた。
交渉の裏側の情報収集。
イラン側の動向分析。
中東各国の反応。
画面を見る時間が、さらに長くなった。
ある夜、上司のヨナタンに呼ばれた。
ヨナタン・シャピロ。
六十代。白髪。目が鋭かった。
三十年間、エレズの上にいた人間だった。
尊敬していた。
今も、している。
そのはずだった。
「エレズ、次のリストを見てくれ」
ヨナタンはタブレットを差し出した。
エレズは受け取った。
座標のリストだった。
また、名前がなかった。
「これは」
「次のフェーズだ」
「停戦は長くないですか」
「停戦は長くない。その前に、準備をする」
エレズはリストを見た。
座標を見た。
頭の中で地図と照合した。
軍事施設ではなかった。
また、遺跡だった。
今度はイランだけではなかった。
イラク。シリア。トルコの南部。
ユーフラテス川沿いの、遺跡群だった。
「これは遺跡です」とエレズは言った。
「そうだ」とヨナタンは言った。
「なぜ」
ヨナタンはエレズを見た。
三十年間、見てきた目だった。
でも今日は、少し違った。
値踏みするような目だった。
「計画書にある」
「理由は」
「理由を聞いたことはなかったな、今まで」
エレズは黙った。
確かに、なかった。
「計画書にあれば、それで十分だった」とヨナタンは続けた。「お前もそうだったはずだ」
「そうでした」
「今も、そうであるべきだ」
エレズはタブレットをヨナタンに返した。
「わかりました」
そう言った。
執務室に戻った。
椅子に座った。
画面を見た。
何も見えなかった。
理由を聞いたことはなかったな、今まで。
三十年間。
一度も。
なぜ聞かなかったのか。
信じていたからだ。
計画書を信じていた。
ヨナタンを信じていた。
神の意志だと信じていた。
その夜、エレズは書斎に入らなかった。
聖書を開かなかった。
ミリアムが心配そうに見ていた。
「どうしたの」
「疲れた」
「そう」
ミリアムはそれ以上聞かなかった。
三十年間の妻だった。
聞かない方がいい時を、知っていた。
ベッドに入った。
眠れなかった。
天井を見た。
暗かった。
計画書。
エレズの頭の中で、言葉が回った。
計画書は聖書だった。
聖書は神の言葉だった。
神の言葉は正しかった。
だから計画書は正しかった。
三十年間の論理だった。
でも今夜、その論理の中に、小さな穴が見えた。
誰が、計画書通りに動くことを決めたのか。
神ではなかった。
人間だった。
ヨナタンだった。
ヨナタンの上にいる人間だった。
その上にいる人間だった。
神の意志と、人間の意志は、同じなのか。
三十年間、同じだと思っていた。
本当にそうなのか。
眠れないまま、朝になった。
五月
停戦が延長された。
次のフェーズは、延期になった。
エレズには時間ができた。
時間ができると、考えた。
考えると、疑問が戻ってきた。
ある夜、遺跡の写真を集めた。
攻撃を受けた場所の写真。
地図に落とした。
座標を結んだ。
線が、形になった。
エレズは画面を見つめた。
分析官として、三十年間培った目で見た。
これは副次的な被害ではない。
これは意図的だ。
遺跡は標的だった。
わかっていた。
自分が作ったリストだった。
でも今夜初めて、その形の意味を考えた。
古代の星図を調べた。
メソポタミアの文献を調べた。
ヘブライ語の文献を調べた。
アラビア語の文献も調べた。
三十年間培った語学力が、今夜は別の方向に使われた。
形が、見えた。
天の門だった。
エレズは椅子の背にもたれた。
天井を見た。
天の門を、地上に描いていた。
自分が、描いていた。
三十年間。
神の意志だと思って、描いていた。
でも、これは誰の意志なのか。
神の意志なのか。
それとも。
書斎の棚に、古い本があった。
父から受け継いだ本だった。
カバラの文献だった。
エレズは立ち上がった。
本を取り出した。
埃を払った。
開いた。
杉の記述があった。
「エレズは天と地を繋ぐ。根は地に、梢(こずえ)は天に。その間に立つ者は、両方を見ることができる」
エレズは本を閉じた。
窓を開けた。
テルアビブの夜風が入ってきた。
遠くに、地中海が見えた。
暗い海だった。
でも、確かにそこにあった。
天と地の間に立つ者は、両方を見ることができる。
エレズは今、どこに立っているのか。
計画の内側にいた。
でも今夜、外側から見始めていた。
両方が、見え始めていた。