エレズ・ベングリオンは、疑ったことがなかった。
三十年間。
一度も。
テルアビブの執務室は、窓がなかった。
モサドの分析官室に、窓は必要なかった。
外の世界を見る必要がなかった。
情報だけがあれば、世界が見えた。
2026年2月28日。
作戦決行の朝。
エレズは画面を見ていた。
衛星画像。座標。攻撃目標のリスト。
三年かけて作ったリストだった。
核施設。ミサイル基地。革命防衛隊の拠点。
そして、もう一つのリスト。
座標だけが並んでいた。
名前はなかった。
エレズは名前を知っていた。
遺跡だった。
でも、そのリストに疑問を持ったことはなかった。
計画書にあった。
計画書は正しかった。
ずっと、そうだった。
作戦が始まった。
画面の中で、座標が一つずつ消えていった。
エレズはコーヒーを飲んだ。
仕事だった。
三十年間、これが仕事だった。
夜、家に帰った。
妻のミリアムが夕食を作っていた。
息子たちはもう独立していた。
静かな家だった。
「どうだった」とミリアムが聞いた。
「いつも通り」とエレズは言った。
嘘ではなかった。
本当に、いつも通りだった。
食後、書斎に入った。
聖書を開いた。
毎晩の習慣だった。
黙示録ではなかった。
詩篇だった。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」
読みながら、エレズは眠くなった。
椅子の上で、眠った。
夢を見た。
満月だった。
森だった。
杉の森だった。
レバノン杉ではなかった。
もっと細い、見たことのない杉だった。
森の中に、祠があった。
小さな石の祠だった。
中に、記号があった。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
エレズは記号を見た。
知っている、と思った。
どこで見たのか、わからなかった。
でも、確かに知っていた。
目が覚めた。
午前三時だった。
夢のことは、すぐに忘れた。
翌朝、また執務室へ行った。
画面を見た。
情報を読んだ。
いつも通りだった。
三月
攻撃から一週間が経った。
エレズの仕事は次のフェーズに移っていた。
情報収集。反応分析。次の手の準備。
画面の中に、一つの報告書があった。
遺跡への被害状況。
エレズは開いた。
写真があった。
崩れた石柱。砂になった壁。二千五百年前の石。
エレズは写真を見た。
閉じようとした。
閉じられなかった。
一枚の写真に、目が止まった。
ペルセポリスの柱の断面だった。
折れた断面に、何かあった。
記号だった。
螺旋と、星と、見たことのない文様。
夢の中で見た記号だった。
エレズは画面に顔を近づけた。
息が、止まった。
閉じた。
また開いた。
まだそこにあった。
エレズは立ち上がった。
窓のない部屋を出た。
廊下を歩いた。
非常口から外に出た。
外の空気を吸った。
テルアビブの空は青かった。
雲一つなかった。
なぜ、その記号を知っていたのか。
夢で見ただけだった。
でも、知っていた。
体が、知っていた。
執務室に戻った。
報告書を閉じた。
いつも通りに仕事をした。
でも、何かが変わっていた。
小さな、でも確かな何かが。
その夜、書斎で聖書を開いた。
詩篇ではなかった。
黙示録だった。
第十六章。
「第六の者が、その鉢を大河ユーフラテスに傾けた」
読んだことは何百回もあった。
でも今日は、違う読み方になった。
計画書、とエレズは思った。
これは預言ではなく、計画書だ。
ずっとそう教わってきた。
ずっとそう信じてきた。
でも今夜初めて、その言葉が怖かった。
計画書。
誰が書いたのか。
誰のための計画なのか。
神のための計画だと、思っていた。
本当にそうなのか。
エレズは聖書を閉じた。
三十年間、開いたことのない疑問が、今夜初めて開いた。