奥多摩 翌朝
雨は夜明けに止んでいた。
山が洗われていた。空気が違った。透は目を覚ました瞬間、東京に帰らなければならないと思った。
理由はわからなかった。
だが確信があった。
弥山に言うと、老人は頷いた。
「血が言っているなら、そうしろ」
「でもまだ訓練が」
「十分だ。残りは現場で覚える」
弥山はアルジュナを見た。
「お前も動け。ロンドンへ向かう前に、やることがある」
アルジュナが聞いた。
「何を」
「祖父の詩を、全部、記憶しているか」
「幼い頃から聞いていた。全部入っている」
「録音しろ。声で録音しろ。それを透に渡せ」
透が聞いた。
「なぜ私に」
弥山は空を見た。
「お前はニューヨークへ行く。アルジュナはロンドンへ行く。だが残り三人がまだいない。詩が必要な場所に、詩が届かない可能性がある」
透は理解した。
「バックアップとして」
「そうだ。サンカの本質は、情報の運搬だ」
アルジュナは社の前に座って、目を閉じた。
そして唱え始めた。
タミル語の詩が、朝の山に流れた。
透はスマートフォンで録音した。
聞いているうちに、また涙が来た。
今回は堪えた。
堪えながら、思った。
この詩が、何万年も生き延びてきた。
どれだけの人が、命をかけて守ってきたか。
アルジュナの祖父が、毎晩唱えていた理由が、初めてわかった気がした。
二人は山を下りた。
弥山は社の前で見送った。
「また会うか」聞くつもりはなかったが、口から出た。
弥山は笑った。
しわの多い、深い笑顔だった。
「二ヶ月後に、世界が変わっていれば、また会える」
「変わっていなければ」
弥山は答えなかった。
それが答えだった。
東京 三日ぶり
電車に乗った瞬間、透は具合が悪くなった。
人が多かった。音が多かった。広告が多かった。スマートフォンを見ている人、イヤホンをしている人、虚空を見ている人。
三日前まで、自分もその一人だった。
今は、全員の気配が流れ込んでくる感じがした。
疲れていた。怖がっていた。急いでいた。
ホームの端に立っている男が、ひどく孤独だった。
透はその男から目を逸らした。
感じすぎる。
弥山に言われた言葉を思い出した。
抑える練習もしろ。全部受け取っていたら、体が持たない。
透は意識的に、壁を作った。
少し楽になった。
自分のアパートに帰った。
三日間、誰もいなかった部屋は、静かだった。
透は部屋を見回した。
何かが違った。
引き出しが、一センチ、ずれていた。
棚の本の順番が、微妙に変わっていた。
透は動かなかった。
体で、部屋の気配を読んだ。
今は誰もいなかった。
だが、来た痕跡があった。
プロの仕事だった。普通の人間なら気づかない。
透は苦笑した。
三日前の自分なら、気づかなかった。
スマートフォンを見た。
着信が七件。母親からが五件、会社から二件だった。
会社に電話した。
「体調不良で、もう少し休みます」
声を聞いて、奥から上司が出てきた。
「大丈夫か、山路。お母さんからも連絡来てたぞ」
「母から?」
「心配してたよ。知り合いが山路のことを心配してるって言ってた。どこで会ったんだかって話で」
透の背中が冷えた。
「知り合い、というのは誰ですか」
「さあ。俺も詳しくは。とにかく早く良くなれよ」
電話が切れた。
透は立ったまま、考えた。
母親への接触が始まった。
同日 世界三か所
ニューメキシコ州 米国
砂漠の中に、古いトレーラーハウスがあった。
中に女性がいた。
三十代。ネイティブアメリカンの血が濃い顔だちだった。長い黒髪。肌が赤みがかった銅色だった。
名前はレイニー・トゥームストーンといった。
彼女は三日前の夜から、眠れていなかった。
夢の中で声がした。
レイニー。赤人の記憶を持つ最後の一人。時が来た。
レイニーは祖母から聞いた話を思い出していた。
部族の秘密。地下に埋められた石板。先祖が命がけで守ってきたもの。
あれは本当だったのか。
レイニーは立ち上がった。
砂漠に出た。
星が多かった。
その中の一つが、明るかった。
レイニーは知っていた。
あれが何か。
祖母が教えてくれていた。
空の船だよ。守ってくれている船だ。
ノルウェー オスロ郊外
森の中の家に、男がいた。
四十代。金髪で、目が青かった。
名前はエリック・ソルベルグといった。
歴史学者だった。ヴァイキングの歴史を研究していた。
三日前の夜に、研究室で倒れた。
意識を失ったわけではなかった。
ただ、突然、全てがわかった気がした。
自分が研究してきた歴史が、全部繋がった。
ヴァイキングが世界中を航海した理由。北欧神話の巨人族の正体。オーディンが片目を捧げて得た知恵の意味。
エリックは三日間、論文を書き続けた。
眠らなかった。
書き終えた時、スマートフォンにメッセージが来た。
送信者の名前は、なかった。
「エリック。論文の結論は正しい。だが世界に発表する前に、会うべき人間がいる。東京へ行け」
エリックは論文の最後の一行を見た。
自分で書いた言葉だった。
白人の起源は、極東にあった可能性がある。
メキシコシティ 郊外
古い家の地下室に、女性がいた。
二十代。肌が緑がかった白さだった。
普通ではない肌の色だった。
子供の頃から、それを隠して生きてきた。
名前はソフィア・デラクルスといった。
彼女は三日前の夜から、泣き続けていた。
理由はわかっていた。
エアから、自分の血の真実を聞かされたからだった。
お前の先祖は、ネフィリムと地球人の混血だ。だが何世代も前に、支配の側から離れた。お前の一族は、ずっと隠れてきた。
ソフィアは手を見た。
普通の手だった。
この手で、何をしろというんだ。
声が来た。
緑の血は、オベリスクの構造を知っている。遺伝子の中に、設計図がある。お前にしか、できないことがある。
ソフィアは立ち上がった。
泣くのをやめた。
スマートフォンを手に取った。
東京行きの航空券を検索した。
東京 透のアパート
透は母親に電話した。
「透、どこにいたの。心配したじゃない」
「ちょっと旅行してた。急に決まって」
「そう。ねえ、あなたの会社の人かしら。山路さんのご友人ですって、上品な人が来てね」
透は息を止めた。
「どんな人だった」
「背が高くて、白髪で、目が灰色の。外国の方みたいだったけど、日本語が上手で」
コンラートだ。
「何を話した」
「あなたのことを心配してるって。最近、変な人に騙されることが多いから気をつけてって。お母さん、心配しちゃった。透、大丈夫?変な人と関わってない?」
透は静かに言った。
「大丈夫。何もされなかった?」
「何もって、普通にお茶飲んで帰ったわよ。良い人そうだったけど」
透は目を閉じた。
コンラートが直接、母親に会いに行った。
排除はできない。
だが、脅すことはできる。
母親を使って、透を止めようとしている。
「お母さん、しばらく旅行に行ってくれないか」
「え、急に何」
「いいから。温泉でも行って。費用は出す」
「何があったの、透」
「何もない。ただ、しばらく東京を離れてほしい。お願い」
長い沈黙があった。
母親が言った。
「わかった。でも後で全部話してね」
「話す。必ず」
電話を切った。
透は窓の外を見た。
東京の夜景が広がっていた。
オベリスクはない。
弥山が言っていた。
この列島だけは、網の外にある。
だから日本が起点になるのかもしれない。
透はアルジュナから送られてきた録音を再生した。
タミルの詩が、東京のアパートに流れた。
不思議なほど、合っていた。
三日後、東京に四人が集まった。
透のアパートは狭かった。
レイニーが砂漠のような目で部屋を見た。
エリックが天井に頭をぶつけた。背が高すぎた。
ソフィアは窓の外を見て、静かに言った。
「オベリスクがない街は、空気が違う」
四人は顔を見合わせた。
初めて会う感じがしなかった。
全員が、そう感じていた。
アルジュナが言った。
「俺たちは多分、昔も会っている」
「ムーで」レイニーが静かに言った。
誰も否定しなかった。
透はアルジュナの録音を、全員に聞かせた。
レイニーが目を閉じた。
エリックが静かになった。
ソフィアの手が、微かに震えた。
詩が終わった。
沈黙があった。
エリックが言った。
「この詩の周波数を測定できる。俺の研究室に機材がある」
ソフィアが言った。
「オベリスクの共鳴周波数も、わかる。遺伝子の記憶の中にある」
レイニーが目を開けた。
「先祖の石板に、周波数の記録がある。砂漠の地下に埋めてある。取りに行ける」
透は五人を見渡した。
五色だった。
黄、青、赤、白、緑。
揃っていた。