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第六章

青い血の記憶

奥多摩 三日目

訓練は、地味だった。

透が想像していたものとは、全く違った。

派手な能力開発でも、秘密の武術でも、神秘的な儀式でもなかった。

ただ、座る。

ただ、歩く。

ただ、聞く。

「もっと遠くを聞け」

弥山が言った。

透は目を閉じて、耳を開いた。

最初の日より、層が分かれて聞こえるようになっていた。自然の音が背景に退いて、人工の音が前に出てくる。エンジン音、人の足音、金属の摩擦音。

「東側の二人は」

「まだいます。交代している。夜中に一人来て、一人去った」

「よく気づいた」

「眠れなかったので」

弥山は小さく笑った。

「遠視はどうだ」

透は首を振った。

「あれ以来、出ない」

「出そうとするな。来るものだ」

「どうすれば来ますか」

「忘れろ」

透は脱力した。

「忘れれば来るというのは」

「意識すると、頭が邪魔をする。サンカの能力は全部そうだ。考えた瞬間に消える。体に任せた時だけ動く」

透は湧き水を見た。

三日間、この水だけを飲んでいた。

体が変わってきていた。感覚が、研ぎ澄まされていく感じがあった。東京で暮らしていた自分が、少しずつ遠くなっていった。


昼過ぎに、弥山が言った。

「今夜、客が来る」

「監視の人間ですか」

「違う。味方だ」

透は聞いた。

「どこから」

「スリランカから」

透は顔を上げた。

「タミルの」

弥山が頷いた。

「青人の末裔だ。名前はアルジュナという。お前と同じ年だ。お前と同じように、三日前に動き出した」

「三日前というのは」

「お前がエアと接触した夜だ。エアは同時に複数の者に連絡した。お前だけではない」

透は初めて、自分以外の存在を意識した。

同じ夜に、同じように目覚めた人間が、世界のどこかにいる。

「他にも」

「いる。だが今は、アルジュナだけを考えろ」


同日 成田空港

アルジュナ・クマラスワミは、入国審査の列に並んでいた。

小柄だったが、目が大きかった。肌が浅黒かった。そして、目の色が、普通ではなかった。

深い紺色だった。

青、と言っても良かった。

日本人の審査官が、パスポートを見て、スタンプを押した。何も気づかなかった。

アルジュナは荷物を受け取りながら、スマートフォンを見た。

メッセージが来ていた。

送信者の名前は、登録されていなかった。

「奥多摩。山路透を探せ。血が呼び合う」

アルジュナは深呼吸した。

コロンボから東京まで、十時間のフライトだった。眠れなかった。三日前の夜から、眠れていなかった。

あの声が、耳の奥に残っていた。

夢の中で聞こえた声ではなかった。

目が覚めている時に、聞こえた。

アルジュナ。お前の民の記憶が、今必要だ。

アルジュナは祖父のことを思った。

コロンボの郊外に住む、小さな老人。タミル語で、毎晩、古い詩を唱えていた。クマリ・カンダムの詩だった。失われた大陸の詩だった。

「これはただの詩ではない」

祖父はいつも言っていた。

「記憶だ。海の底に沈んだ、我々の故郷の記憶だ」

アルジュナは子供の頃、信じていなかった。

大人になって、もっと信じなくなった。

三日前の夜まで。


奥多摩 夜

焚き火が、また燃えていた。

アルジュナが社の前に現れたのは、日が完全に落ちた後だった。

奥多摩駅から、地図を見ずに歩いてきた。

道に迷わなかった。

透は立ち上がった。

アルジュナは透を見た。透はアルジュナを見た。

言葉がなかった。

だが、何かがあった。

初めて会う感じがしなかった。どこかで、ずっと昔に、会ったことがあるような感覚だった。

弥山が言った。

「座れ。二人とも」


アルジュナの日本語は、完璧だった。

透が驚くと、アルジュナは言った。

「なぜかわからないけど、できる。子供の頃から」

「血だ」

弥山が言った。

「タミルの民と日本は、古い繋がりがある。言語学者が不思議がっている。タミル語と日本語に、共通する構造がある。偶然ではない」

アルジュナが頷いた。

「祖父がそう言っていた。日本は我々の兄弟の国だと」

透はアルジュナの目を見た。

紺色だった。室内では青に見えた。

「目の色が」

「生まれつきだ。家族の中で、隔世で出る。祖父も同じ色だった」

弥山が言った。

「青人の証だ。遺伝子の中に残っている。薄まりながらも、消えない」


クマリ・カンダムの記憶

アルジュナは、祖父の詩を唱えた。

タミル語だった。透には意味がわからなかった。

だが、聞いていると、何かが来た。

映像ではなかった。感覚だった。

広い海。温かい水。陸地が、ゆっくりと、沈んでいく感覚。人々が船に乗って、逃げていく。振り返る。沈んでいく故郷を見ている。

透の目から、涙が出た。

理由がわからなかった。

アルジュナが詩をやめた。

「泣いているのか」

「なぜか、わからない」

アルジュナは静かに言った。

「俺の祖父も、この詩を唱えると泣く。毎回泣く。だが悲しいからではないと言っていた」

「では」

「覚えているからだ、と」

弥山が火を見ながら言った。

「細胞の記憶だ。DNAの中に、経験が刻まれる。ムーが沈んだ日の記憶が、お前たちの血の中にある。何万年経っても、消えない」

透は涙を拭いた。

「私はタミルの血ではないのに」

「縄文の血だ。同じ日に、同じものを失った。ムーが沈んだ時、縄文の民も、タミルの民も、同じ海を見ていた」


アルジュナが言った。

「エアから聞いた。青人の役割を」

透は聞いた。

「何ですか」

「記憶の保管者だ。タミルの民は、クマリ・カンダムの記憶を、詩として、神話として、何万年も保存してきた。失われた大陸の地図、言語、文化。全部、詩の中に隠してある」

「なぜ隠す必要が」

「狙われるからだ」

アルジュナの目が、暗くなった。

「タミルの民は、ずっと迫害されてきた。スリランカで。インドで。記憶を持つ者が、消されようとする。だから詩に隠した。意味がわからない者には、ただの歌に聞こえる」

弥山が言った。

「オベリスクが意識を眠らせる。タミルの詩が意識を覚ます。真逆の機能を持っている」

透は繋がりを感じた。

「だから迫害された」

「そうだ」

弥山が頷いた。

「覚醒を促すものは、支配する側には邪魔だ。消したい。だが詩は、人の口から口へ伝わる。完全には消せない。だからタミルの民ごと、弱体化させようとしてきた」

アルジュナが静かに言った。

「スリランカの内戦で、どれだけの人が死んだか。世界はあまり知らない」

透は何も言えなかった。


遠視

深夜になった。

弥山が眠った。

透とアルジュナは、焚き火の前に残った。

「お前も能力が出たか」

アルジュナが聞いた。

「遠視が一度だけ。あとは気配を読めるようになってきた。お前は」

「音だ」

アルジュナは耳を触った。

「遠くの会話が聞こえる。コロンボにいた時から始まった。最初は頭がおかしくなったと思った」

「今も聞こえるか」

「今は抑えている。全部聞いていると、疲れる」

透は東側の気配を確認した。

まだいた。

「監視されている」透は言った。「東側に二人」

アルジュナが耳を澄ませた。

「会話が聞こえる。日本語ではない。英語でもない」

「何語だ」

「わからない。でも」

アルジュナが目を細めた。

「一人が言っている。対象が二人になった。ジュネーブに報告しろ、と」

透は息を呑んだ。

「聞こえるのか、そこまで」

「四百メートルくらいなら」

透は弥山を起こそうとした。

アルジュナが止めた。

「待て。まだ聞こえる」

しばらく沈黙があった。

アルジュナの顔が、険しくなった。

「第八段階を早めるそうだ。二ヶ月後に」

「何をするんだ、第八段階というのは」

アルジュナは首を振った。

「それは聞こえなかった。暗号で話し始めた」

二人は顔を見合わせた。

焚き火が、風もないのに、大きく揺れた。

その瞬間。

透に、遠視が来た。


石造りの地下室。

スクリーンが三つ。

コンラートが立っていた。

今回は背中しか見えなかった。だが、スクリーンの一つに、何かが映っていた。

地図だった。

日本列島の地図だった。

複数の点が、光っていた。

東京。京都。奈良。出雲。沖縄。

そして奥多摩。

奥多摩の点だけが、赤かった。

他は全て、緑だった。

コンラートが地図を見ながら、誰かに言った。

声は聞こえなかった。

だが口の動きが、読めた気がした。

時間がない。全部、同時に動かせ。


透は現実に戻った。

呼吸が乱れていた。

アルジュナが透の背中を叩いた。

「大丈夫か」

「見えた。また見えた」

透は見たものを全部、話した。

アルジュナは黙って聞いた。

最後に言った。

「日本列島の複数の点というのは」

「わからない。でも緑の点が、オベリスクと同じ色だった」

アルジュナが立ち上がった。

弥山を起こしに行った。

弥山は、起こされる前に目を開けていた。

「聞こえていた」

弥山は言った。

「全部か」

「全部だ」

弥山は立ち上がって、空を見た。

曇っていた。

さっきまで見えていた、明るい星が、雲の向こうに消えていた。

「エア」

弥山が空に向かって言った。

声ではなかった。念じるように言った。

しばらく待った。

何もなかった。

そして。

社の中の短波ラジオが、誰も触っていないのに、ノイズを出し始めた。

三人が、社の中に入った。

ラジオの前に座った。

聞こえている。

エアの声がした。

遠視の内容は正しい。第八段階が早まった。私も計画を変える必要がある。

透は聞いた。

「第八段階とは何ですか」

短い沈黙があった。

人類の記憶を、最後にもう一度、消そうとしている。

焚き火の外で、風が鳴った。

オベリスクのネットワークを使って、特定の周波数を、同時に、全世界に向けて放出する。意識が深く眠る。目覚めかけていた者たちが、また眠る。

「それが第八段階か」

そうだ。そしてその後に、脚本の最終章が動く。終末論の実行だ。

アルジュナが言った。

「止められるか」

止められる。だが、方法は一つだ。

三人が、ラジオを見た。

オベリスクのネットワークを、逆用する。眠らせる周波数ではなく、覚ます周波数を、同じネットワークで流す。

「どうやって」

タミルの詩だ。

アルジュナが息を呑んだ。

クマリ・カンダムの詩には、覚醒の周波数が含まれている。それをオベリスクに乗せれば、ネットワークが逆転する。眠らせる装置が、覚ます装置になる。

「詩をオベリスクに乗せるというのは」

物理的に、オベリスクに触れて、唱える必要がある。世界中の主要なオベリスクで、同時に。

三人は顔を見合わせた。

弥山が言った。

「何人必要だ」

五人だ。五色人の血を持つ者が、それぞれの場所で、同時に唱える。

透は理解した。

「五色人の代表が、五つのオベリスクで」

そうだ。お前が黄。アルジュナが青。あと三人が必要だ。

「どこにいる」

すでに動き出している。赤、白、そして緑。

透は止まった。

「緑というのは」

レプティリアンの血を持つ者の中に、エア側についた者がいる。全ての種族が、支配を望んでいるわけではない。

弥山が静かに言った。

「それは知らなかった」

私も最近まで知らなかった。だが連絡が来た。内部に、反乱がある。


雨が降り始めた。

社の屋根を、雨粒が叩いた。

二ヶ月だ。それまでに五人が集まり、同時に動く必要がある。

「場所は」

ロンドン、パリ、ローマ、ワシントン、そしてニューヨークだ。

透は地図を頭の中に描いた。

「私はどこへ」

ニューヨークだ。自由の女神の近くに、見落とされているオベリスクがある。

アルジュナが言った。

「俺は」

ロンドン。テムズ川沿いのクレオパトラの針だ。

雨が強くなった。

ラジオのノイズが、少し大きくなった。

もう一つ、伝えておく。

エアの声が、重くなった。

コンラートは、お前たちを排除しようとするだろう。だが彼には、できない制約がある。

「何の制約ですか」

彼自身が、宇宙法に縛られている。ネフィリムの計画を実行する権限はある。だが、宇宙法評議会が介入を許可した者を、直接排除することは、できない。

「では安全か」

直接は、できない。だが間接的には、何でもする。

透は弥山を見た。

弥山は目を閉じていた。

「間接的とは」

人を使う。お前たちの周囲の、普通の人間を。気づかないまま動かされる者たちを。

透の頭に、東京の顔が浮かんだ。

会社の同僚。友人。

そして。

母親。


今夜はここまでだ。

エアが言った。

休め。明日から、残り三人を探す動きが始まる。

ラジオのノイズが、静かになった。

エアが去った。

三人は、雨の音の中に残された。

弥山が目を開けた。

「眠れ。明日は長い一日になる」

透は横になった。

雨の音を聞いていた。

眠れないと思った。

だが、三分後には眠っていた。

夢は見なかった。


アルジュナは眠る前に、空を見た。

雨で、星は全く見えなかった。

それでもアルジュナは、雲の向こうを見るように、上を見た。

そして小さく言った。

タミル語だった。

翻訳すれば、こうなる。

見ている。必ず、やり遂げる。