← 五色の詩 目次

第五章

二つの視線

朝 奥多摩

透が目を覚ますと、弥山はすでにいなかった。

社の前に、水と、昨夜と同じ干し肉が置いてあった。

空が白んでいた。鳥が鳴いていた。東京から一時間半の場所とは思えない静けさだった。

透はスマートフォンを見た。

電波がなかった。

当然だと思った。

水を飲んで、干し肉を食べた。昨夜より美味く感じた。体が、山の食べ物を受け入れ始めていた。

「起きたか」

弥山が木々の間から現れた。息が全く乱れていなかった。どこかを走ってきた様子だったが、老人とは思えない動きだった。

「走ってきたのですか」

「見回りだ。毎朝する」

「何を」

「気配だ」

弥山は透の隣に立って、山を見渡した。

「昨夜から、少し変わった」

透は同じ方向を見た。木と、朝霧と、光しか見えなかった。

「何が変わったのですか」

「説明できない。だが変わった」

弥山はそれ以上言わなかった。


同じ朝 ジュネーブ

石造りの建物の地下に、部屋があった。

地図に載っていない部屋だった。

窓がなかった。空調の音だけが、一定のリズムで流れていた。

スクリーンが三つ、並んでいた。

男が一人、座っていた。

五十代に見えた。だが実際の年齢は、外見から判断できる範囲を超えていた。白髪で、目が灰色だった。感情が読めない目だった。

名前はコンラートといった。

組織の中では「管理者」と呼ばれていた。

スクリーンの一つに、日本の地図が映っていた。奥多摩の一点が、赤く点滅していた。

「出たか」

コンラートは独り言を言った。

部下が一人、報告した。

「昨夜から信号が確認されています。短波帯域の、特定の周波数です」

「エアの周波数か」

「パターンが一致しています」

コンラートは組んだ手を、口元に当てた。

「誰と接触した」

「山路透。三十二歳。東京在住の会社員です。特に目立った経歴はありません」

「家系は」

部下が一瞬、間を置いた。

「山路家は、三代前まで追えます。その前が、確認できません」

コンラートの目が、細くなった。

「サンカか」

「可能性が高いと思われます」

コンラートはスクリーンを見た。

赤い点が、静かに点滅し続けていた。

「監視を続けろ。まだ動くな」

「理由を伺っても」

「泳がせる。エアが何を伝えたか、知りたい。動けば、情報が止まる」

部下は頷いた。

コンラートは別のスクリーンを見た。

世界地図だった。

各都市に、緑の点が光っていた。ロンドン、パリ、ワシントン、ローマ、ニューヨーク。

オベリスクの位置と、完全に一致していた。

「周波数は正常か」

「全て正常です。出力、安定しています」

コンラートは小さく頷いた。

「指示書の第七段階は」

「予定通り進行中です」

「第八段階の準備は」

「三ヶ月後に移行可能です」

コンラートは立ち上がった。

背が高かった。天井に近いほど、高かった。

「急ぐ必要はない」

静かな声だった。感情のない声だった。

「だが、エアが動き始めたなら、こちらも準備を早める必要があるかもしれない」

コンラートはドアへ向かいながら、振り返った。

「山路透の周辺を洗え。接触者を全員リストアップしろ」

「了解しました」

「そして」

コンラートの目が、灰色から、一瞬だけ、別の色になった。

金色だった。

「サンカのネットワークを、今度こそ地図に落とせ。千年待った。もう終わりにする」


奥多摩 同日 午前

「歩け」

弥山が言った。

透は立ち上がった。

「どこへ」

「どこでもいい。足に任せろ」

透は歩き始めた。最初は方向が定まらなかった。左へ行きかけて、右へ修正して、また左へ。

「考えるな」

弥山が後ろから言った。

「体に聞け」

透は目を閉じた。

歩いた。

三分後、足が止まった。

目を開けると、小さな湧き水があった。地図にない水だった。澄んでいた。

「ここがわかったか」

弥山が隣に来た。

「わかったというか、来てしまった」

「それでいい。サンカの血だ。山を地図なしで歩ける。水を見つけられる。気配を読める。お前はずっとそれを夢の中でやっていた」

透は湧き水を見た。

「夢は訓練だったのですか」

「準備だ。エアが送っていた。お前が気づく前から」

透は膝をついて、水を手ですくった。飲んだ。

冷たかった。

何かが、体の奥で動いた気がした。


「次を教える」

弥山は周囲の木々を見渡した。

「声を聞く訓練だ」

「声?」

「山の声だ。風の方向。動物の動き。人の気配。全部、音になっている。耳を開けろ」

透は目を閉じた。

最初は何も聞こえなかった。

いや、違った。

聞こえすぎていた。

鳥の声。風の音。葉が擦れる音。遠くで水が流れる音。もっと遠くで、何かが動く音。

「多すぎます」

「最初はそうだ。慣れると分類できる。自然の音と、不自然な音が、分かれて聞こえる」

「不自然な音とは」

弥山は答えなかった。

代わりに言った。

「今、山の東側に人間が二人いる。どのくらい離れていると思う」

透は耳を澄ませた。

何かが、あった。

音というより、気配だった。

「三百メートル?いや、五百メートルくらい」

「四百だ。登山者だ。危険ではない。だが」

弥山が透を見た。

「昨夜からずっといる登山者は、登山者ではない」

透の背中が、冷えた。

「監視ですか」

「昨夜から気配が変わったと言っただろう」

弥山は静かだった。怒っていなかった。怖がってもいなかった。ただ、事実として言った。

「思ったより早かった。お前がエアと接触した情報が、もう届いたようだ」

「どこへ」

「ジュネーブだ」

透は山の東側を見た。

木しか見えなかった。

「逃げますか」

「逃げない」

弥山は湧き水の前に座った。

「まだ動く段階ではない。向こうも動かない。お互い、様子を見ている」

「なぜ向こうは動かないのですか」

「泳がせたいんだろう。エアが何を伝えたか、知りたい」

透はジュネーブという言葉を頭の中で繰り返した。

石造りの建物。地図にない部屋。そこで誰かが、自分の名前を調べている。

なぜか、その映像が、はっきりと浮かんだ。

「どうした」

弥山が言った。

「なんか、見えた気がして」

「何が」

「地下の部屋。スクリーンが三つ。白髪の男が」

弥山の目が、鋭くなった。

「詳しく言え」

「目が灰色で。でも一瞬、金色になった気がして」

弥山は立ち上がった。

「コンラートだ」

「知っているのですか」

「名前だけだ。実物を見た者は、ほとんど生きていない」

透は自分が何を見たのか、理解できなかった。

幻覚か。インスピレーションか。

「これも血ですか」

「そうだ」

弥山は山の東側を見た。

「遠視だ。サンカの中でも、特別な者にしか出ない」

そして静かに言った。

「お前は、思っていたより、深い血を持っている」


ジュネーブ 同日 午後

コンラートは報告を受けた。

「対象が、こちらの監視に気づいた可能性があります」

「根拠は」

「行動パターンが変わりました。東側を、二度、見ています」

コンラートは無表情だった。

「気づいたか」

「サンカの老人と一緒にいるためかと」

「いや」

コンラートは考えた。

「対象自身だ。老人だけなら、こちらの存在に気づいても動じない。だが対象が気づいたとすれば」

コンラートは立ち上がった。

「血が、思ったより濃い」

部下が言った。

「排除しますか」

コンラートは首を振った。

「まだだ。だが」

スクリーンの赤い点を見た。

「第八段階の準備を、一ヶ月早めろ」

「三ヶ月後を、二ヶ月後に?」

「そうだ」

コンラートは窓のない部屋を出た。

廊下を歩きながら、考えた。

エアが動いた。サンカが動いた。そして予想外の血が目覚めた。

千年分の計画が、初めて、微かに揺れた。

コンラートは、それを恐怖とは呼ばなかった。

だが、確かに何かを感じた。

それは、長い眠りの中で、初めて感じる、朝の気配に似ていた。