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第三章

奥多摩

金曜の夜、仕事終わりに電車に乗った。

ザックひとつ。テント、シュラフ、バーナー、コーヒーの道具。それだけあれば、エマには十分だった。

奥多摩駅に着いたのは夜の九時を過ぎていた。

空気が違った。

東京にいるのに、東京じゃない空気。

エマは深く吸った。

久しぶりに、肺が全部ふくらんだ気がした。


翌朝。

テントを出たのは五時だった。

珈琲を淹れた。ミルで豆を挽いて、ドリッパーにお湯をゆっくり注ぐ。

この時間のためにキャンプをしている、と言っても過言ではなかった。

インスタ用に写真を撮った。

苔むした石の上に置いたカップ。

いいね、これ。

しばらくぶりの、軽い気持ちだった。

珈琲を飲みながら、何も考えなかった。

ユーフラテスのことも。

黙示録のことも。

ただ、鳥の声を聞いていた。


午前八時。

テントを撤収して、散策に出た。

地図は持っていたが、あまり見なかった。

エマの散策はいつもそうだった。気になる方へ曲がる。面白そうな道へ入る。迷ったら戻る。

新緑だった。

五月の奥多摩の緑は、種類が多すぎて名前がわからなかった。黄緑、深緑、青みがかった緑、光を透かす薄い緑。

これだけで絵になる、と思った。

スマートフォンを構えた。

撮った。また撮った。

歩いた。


一時間ほど歩いたところで、道が細くなった。

地図にない道だった。

引き返そうと思った。

でも、足が進んだ。

木々の密度が上がった。

光が変わった。

そこに、祠があった。

小さかった。見落としそうなほど小さな、石の祠。

苔がついていた。古いものだとわかった。

エマはしゃがんで、正面から見た。

中に、何かあった。

石に、記号が刻まれていた。

螺旋と、星と、見たことのない文様。

エマの手が、止まった。

見たことがある。

どこで?

思い出せなかった。

でも確かに、知っている形だった。

「珍しいでしょう」

声がした。

振り返ると、老人が立っていた。

いつからそこにいたのか、わからなかった。

「この祠ですか?」とエマは聞いた。

「その刻み。見てわかる人は、久しぶりだ」

老人は祠ではなく、エマを見ていた。

「若い男が来たのは、二年前だったかな」

老人は遠くを見るように目を細めた。

「似ているわけじゃない。でも、同じ目をしている」

エマは何も言えなかった。

同じ目、という言葉の意味が、わからなかった。

わかりたくない気もした。

「お名前は?」と老人が聞いた。

「絵馬、です」

老人は少し黙った。

それから、静かに笑った。

「そうか」

それだけ言って、老人は木々の方へ歩いていった。

エマが我に返って振り返ったとき、もう姿はなかった。


祠の前に、しばらく座っていた。

スマートフォンを取り出した。

写真を撮ろうとした。

撮れなかった。

なぜかはわからなかった。

ただ、この場所はインスタに上げてはいけない、と思った。

生まれて初めて、そう思った。

立ち上がって、来た道を戻った。

ザックを背負って、駅へ向かいながら、エマはずっと考えていた。

同じ目。

その男は何を見たのか。

その男は今、どこにいるのか。

名前も知らない。

顔も知らない。

でも、探したい、と思った。

理由はなかった。

ただ、そう思った。