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第八章

観測者

三度目の奥多摩。

十二月になっていた。

山は冷えていた。

息が白かった。


透が焚き火を起こしていた。

拓海は座った。

コーヒーを受け取った。


「透さん、一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「俺みたいな普通の人間が、観測者になったとして、何が変わるんですか。世界規模で言えば、何も変わらないんじゃないですか」

透はコーヒーを飲んだ。

「山下さん、石を川に投げたことはありますか」

「あります」

「波紋が広がりますよね」

「はい」

「一つの石が、川の端まで届きますか」

「届かないと思います」

「でも、波紋は広がる」

「広がります」

「それです」


拓海は焚き火を見た。

「でも、波紋は消えます」

「そうですね」

「消えたら、意味がないんじゃないですか」

透は首を振った。

「消えた波紋が、水の分子を動かしています。目に見えないだけで、確かに動いている。その動きが、次の何かに影響する」


風が吹いた。

杉が揺れた。


「俺が田中に話したことが、波紋になりますか」

「なっていると思います」

「田中は電車で外を見るようになったと言っていました」

「それが波紋です」

「でも田中が外を見ても、世界は変わらない」

「田中が外を見て、何かを感じた。その何かが、田中の次の選択を変えるかもしれない。田中の選択が、誰かの何かを変えるかもしれない」


拓海は空を見た。

冬の星が、多かった。


「透さんは、どうして俺にこれを話したんですか。本当のところを」

透は空を見た。

しばらく黙っていた。

「弥山という人がいました」

「老人ですよね。夢に出てくる」

「その人に言われたんです。お前の次に来る者が、本当に伝える者だ、と」


拓海は透を見た。

「俺が、ですか」

「わかりません。でも、あなたが来た」

「俺は特別じゃないですよ」

「知っています」

「サンカの血とか、そういうのもない」

「知っています」

「じゃあなぜ」

透は拓海を見た。

「特別じゃないから、です」


沈黙があった。

焚き火だけが、音を立てていた。


「特別じゃない人間が、気づく。それが最も強い波紋です」

透は続けた。

「透さんは特別な血筋があった。エマさんはクリスチャンだった。エレズさんはモサドだった。みんな、何か特別な文脈があった」

「俺には何もない」

「そうです。何もない人間が気づいた時、同じ何もない人間に届く。それが、一番広い波紋になる」


拓海は手を見た。

普通の手だった。

何も特別ではない手だった。


でも今夜、それでいいと思った。