その夜。
拓海はノートを開いた。
日記をつける習慣はなかった。
でも今夜は、書きたかった。
ソクラテスは言った。汝自身を知れ。
釈迦は言った。自灯明。
イエスは言った。神の国は汝らの中にあり。
三人とも、外に答えを求めるな、と言っていた。
でも世界は、ずっと外に救世主を求め続けた。
なぜか。
拓海はペンを止めた。
考えた。
忘れているから、と透は言った。
何を忘れているのか。
自分が観測者だということを。
観測者とは何か。
見る者。
意識を向ける者。
選択する者。
じゃあ俺は、毎日何を見ているのか。
スマートフォン。
ニュース。
インスタ。
ヒーロー映画。
俺が毎日見ているものが、俺の世界を作っている。
拓海はペンを置いた。
窓の外を見た。
東京の夜だった。
光があった。
この光の一つ一つに、観測者がいる。
全員が、毎日何かを選択している。
全員が、気づかないまま、世界を作っている。
じゃあ気づいたら、どうなるのか。
ノートに書いた。
気づいた観測者は、意図的に選択できる。
何を見るか。
何を信じるか。
誰に優しくするか。
何に怒るか。
何を笑うか。
それが、救世主の仕事なのかもしれない。
特別な力はいらない。
意図的に、選択する。
それだけのことが、波紋になる。
拓海はノートを閉じた。
時計を見た。
午前一時だった。
眠れる気がしなかった。
でも、眠ることにした。
明日も、電車に乗る。
明日も、田中と飯を食う。
明日も、普通の日が来る。
その普通の日が、戦場だ。
目を閉じた。
暗闇の中で、焚き火の光が見えた。
透の声が聞こえた気がした。
観測者が決めるんです。一人一人が。
拓海は眠った。
その夜、夢は見なかった。
ただ、深く、眠った。