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第八章

文書

三人は山を下りた。

奥多摩駅の近くの喫茶店に入った。

店主は何も聞かなかった。

コーヒーを三つ持ってきた。

それだけだった。


エレズは手帳を出した。

古い手帳だった。

ページを開いた。

「文書は、テルアビブにあります」

「組織の中ですか」とエマが聞いた。

「そうです。最上層のサーバーにあります。私のアクセス権限では、入れない場所です」

「では、どうやって」と透が聞いた。

「一人、知っている人間がいます。アクセス権限を持っている人間が」

「信頼できますか」

「わかりません。五年前までは、信頼できました」

「今は」

「確かめていません」


エマはコーヒーを一口飲んだ。

「その人に、連絡できますか」

「日本に来る前に、一度電話しました」

「何と言いましたか」

「日本に行く必要があるかもしれない、と言いました」

「返事は」

「わかった、と言いました」

透が言った。

「それだけで動ける人なんですね」

「そういう人間です」


エレズはコーヒーカップを両手で持った。

温かかった。

「問題は、時間です。停戦がいつ終わるか、わからない。次のフェーズが始まる前に、文書を外に出す必要があります」

「外に出して、どこへ」とエマが聞いた。

「メディアです。複数の国のメディアに、同時に送ります」

「それで、計画が止まりますか」

エレズは正直に言った。

「止まるかもしれない。止まらないかもしれない」

「でもやる」と透が言った。

「でもやります」


店主がカウンターから言った。

「もう一杯どうですか」

三人は顔を見合わせた。

透が笑った。

「いただきます」


コーヒーが来た。

店主は奥に引っ込んだ。


「私にできることがありますか」とエマが聞いた。

エレズは少し考えた。

「あります」

「何ですか」

「記録してください」

「記録」

「三人が知っていることを、全部。遺跡の地図。天の門の形。黙示録との対応。老人の話。透さんのブログ。あなたがユーフラテスへ行ったこと。全部です」

「なぜ私が」

「あなたは最初に気づいた人間だからです。エマさんが書いた記録は、文書よりも強いかもしれない」

エマは少し黙った。

「文書は、計画を証明する。でも私の記録は」

「人間が気づいた記録です」とエレズは言った。「計画があっても、気づく人間がいる。それを示せます」


エマは窓の外を見た。

六月の雨が、また降り始めていた。

静かな雨だった。

「わかりました」


透が言った。

「私は何をしますか」

エレズは透を見た。

「繋いでください」

「何を」

「全部を、繋いでください。私とエマさんを繋いだように。文書と記録を繋いでください。日本とイスラエルを繋いでください」

透は窓の外を見た。

雨を見た。

「間に立つ者ですね」

「老人が言った通りです」

透はうなずいた。

長い間、うなずいていた。


三人はコーヒーを飲み終えた。

立ち上がった。

店主に礼を言った。

店主は黙ってうなずいた。


外に出た。

雨だった。

エレズは傘を持っていなかった。

透がコンビニで傘を買ってきた。

「どうぞ」と渡した。

エレズは受け取った。

「ありがとう」

日本語で言った。

透が少し驚いた顔をした。

「日本語、話せるんですか」

「少しだけ」

「最初から話せばよかった」

「様子を見ていました」

透はまた笑った。

エマも、今度は笑った。


三人は駅の前で別れた。

エレズはテルアビブへ戻る。

透とエマは、それぞれの場所へ戻る。


「いつ連絡しますか」と透が聞いた。

「一週間以内に」とエレズは言った。

「わかりました」

エマがエレズを見た。

「信じます」と言った。

短かった。

でも、重かった。

エレズには、その重さがわかった。

「ありがとうございます」


電車が来た。

透とエマが乗った。

扉が閉まった。

電車が動いた。


エレズは一人、ホームに立っていた。

雨が降っていた。

透に買ってもらった傘を差していた。

コンビニの安い傘だった。

でも、十分だった。


スマートフォンを取り出した。

ヨナタンからまたメッセージが来ていた。

「進捗を報告しろ」

エレズは画面を見た。

長い間、見た。

それから打ち込んだ。

「対象は危険ではありません。監視を続けます」

送信した。

最後の嘘だと思った。


次に、別の番号に電話した。

五年ぶりに話した元同僚だった。

三回で出た。

「エレズか」

「動く時が来た」

「わかった」

「リスクが高い」

「知っている」

「それでもいいか」

電話の向こうで、少し間があった。

短い間だった。

「お前が動くなら、いい」


電話を切った。

ホームに一人立っていた。

雨が、傘を叩いていた。

規則正しい音だった。


遠くで、電車の音がした。

次の電車が来る音だった。

エレズは傘を持ち直した。

根を張る時だ、と思った。

三十年遅かったかもしれなかった。

でも、今日からだと思った。

今日からで、いいと思った。


電車が来た。

エレズは乗った。

成田へ向かった。

テルアビブへ向かった。

自分が三十年間いた場所へ、今度は別の目的で戻った。