ラジオのノイズが、波のように揺れていた。
老人は社の入口に座り、目を閉じた。聞き役ではなく、見張り役として。山の気配を読んでいた。
透はラジオの前に正座していた。なぜ正座なのか、自分でもわからなかった。ただ、そうしなければならない気がした。
時間がある。焦らず聞け。
エアの声が言った。
だが、覚えておけ。これは神話ではない。宗教でもない。お前たちが「歴史」と呼んでいるものより、はるかに長い、本当のことだ。
最初の戦争
はるか昔、オリオン座の方向で、大きな戦争があった。
宇宙は広い。種族も多い。価値観も違う。支配したい者と、共存したい者が、長い時間をかけて戦った。お前たちの言葉で言えば、数十万年前のことだ。
戦争が終わった時、平和を選んだ種族たちが集まった。二十二の種族だ。彼らは誓いを立てた。支配のない星を作ると。
その星として選ばれたのが、地球だった。
透は息を止めた。
地球はテラフォーミングされた。二十二種族の技術を合わせて、生命が育つ星に作り替えた。そして最後に、二十二種族の遺伝子を掛け合わせた存在を創った。
「人を」透は言った。
そうだ。お前たちは、宇宙の平和の象徴として生まれた。それが最初の人類だ。
老人が目を開けずに言った。
「縄文の民だ」
そうだ。彼らがムー、レムリアと呼ばれる文明を築いた。争わず、自然と共存し、ゆっくりと成長していた。それが本来の地球の姿だった。
透は木箱の紙を取り出した。螺旋の文様が、蛍光灯のない山の中で、不思議なほど鮮明に見えた。
その文様は、二十二種族の遺伝子の設計図だ。お前の祖母が守っていた。サンカが代々守ってきたものだ。
「なぜサンカが」
後で話す。順番がある。
ニビルの介入
平和は長く続いた。だが、宇宙には余計なことをする者がいる。
惑星ニビルという星がある。楕円軌道で、定期的に地球に近づく星だ。そこに住む者たちが、地球に目をつけた。
「エンキとエンリルですか」
ラジオが一瞬、静まった。
お前はよく知っている。
「祖母が、断片的に話してくれていました。夢の中で」
なるほど。血が覚えていたのかもしれない。
エアの声に、微かな感情が混じった。
エンキは私の父だ。遺伝子工学者だった。地球の人類を見て、興味を持った。彼らをより速く成長させようとした。善意だった。だが、余計な介入だった。
透は何も言わなかった。
エンリルは秩序を重んじた。人類を管理下に置こうとした。エンキとは動機が違ったが、どちらも宇宙法を無視していた。
「宇宙法とは」
惑星の進化には干渉しない。住人が自ら選択する権利を侵さない。宇宙の根本的なルールだ。
堕天使
そしてウォッチャーたちが来た。
透の背筋が、冷えた。
監視者として地球に派遣された者たちだ。だが彼らは、地球人の女性を見て、ルールを破った。二百人以上が地球に降り、それぞれ女性を妻にした。
「エノク書に書かれていることが」
事実だ。生まれた子供たちがネフィリムだ。半分がニビルの血、半分が地球人の血。巨人で、長命で、能力が高かった。だが制御できなかった。地球の資源を食い尽くし、最後は人を食べ始めた。
老人が静かに言った。
「神話の巨人伝説は、世界中にある」
全て同じ記憶だ。民族が違っても、人類は覚えていた。
「洪水で一掃されたと聞きました」透は言った。「でもネフィリムは絶滅しなかった」
賢いな。そうだ。一部が生き延びた。長命だからこそ、隠れ続けることができた。彼らは人間社会に溶け込み、権力の中枢に入り込んだ。数千年かけて、地球の支配構造を作り上げた。
「スイスに」
そうだ。
2012年
透は聞かなければならないことを、聞いた。
「2012年に何が起きたのですか」
ラジオのノイズが、大きくなった。
そして静まった。
ネフィリムが逮捕された。
山の中が、完全に静寂になった。
鳥も、虫も、風も、止まった。
宇宙法評議会が動いた。長い時間をかけて証拠を集め、マヤカレンダーが終わる日に、執行した。ネフィリムは現在、地球にいない。
「では」透は言った。「支配は終わったのでは」
終わっていない。
エアの声が、重くなった。
ネフィリムは消えた。だが計画書が残った。何千年もかけて作り上げたシステムが、自動的に動き続けている。権力者たちはリーダーを失ったが、指示書通りに動くことしか知らない。
「聖書の終末論が」
ネフィリムが書いた脚本だ。人類が信じることで、自ら実現させてしまう。それが最も巧妙な支配だ。信仰という形で、支配を永続させる仕組みだ。
透は目を閉じた。
頭の中で、何かが繋がっていく音がした。
月の秘密
もう一つ、話さなければならないことがある。
エアの声が、少し重くなった。
月のことだ。
透は空を見た。
山の上に、月があった。
月は最初からそこにあったわけではない。
「どういう意味ですか」
マルデクという惑星があった。木星と火星の間にあった、生命豊かな星だ。
透は息を呑んだ。
マルデクは破壊された。今も木星の周囲に漂う無数の塵が、その残骸だ。マルデク消滅の時、火星も巻き込まれた。かつて火星は、生命に満ちた星だった。
「では火星は」
今のような姿になった。そしてマルデクの破壊により、地球の自転が不安定になった。安定させるために、月が設置された。
「設置、ですか」
そうだ。月は自然にそこにあったのではない。エンリルの系譜が、安定のために置いた。それは本当のことだった。だが同時に、別の機能が組み込まれた。
ラジオのノイズが、大きくなった。
忘却だ。
山の中が、静まった。
土星の周波数を、月を介して地球へ送る。人の意識を、ある状態に固定する。特に輪廻転生の瞬間に最も強く作用する。魂が生まれ変わるたびに、前世の記憶が消える。白紙の赤ちゃんとして再スタートする。
透は手を見た。
「だから誰も、覚えていないのか」
そうだ。何度生まれ変わっても、また一から支配される。これが最も巧妙な支配だった。武力ではない。記憶を消すことで、永遠に羊を作り続ける仕組みだ。
「羊飼いと、羊」
聖書の羊飼いとは、人類の方向性を管理する者のことだ。羊とは、記憶を消された人のことだ。
透は老人を見た。
弥山は目を閉じたまま、うなずいていた。
知っていた。ずっと、知っていた。
私の父エンキは反対した。止められなかった。だが2012年、私は月の管理を取り戻した。
「だから」透は言った。「2012年から、何かが変わった」
周波数が変わり始めた。少しずつ、記憶が戻り始めている。お前が満月の夜に夢を見る理由も、そこにある。
「月が最も強い夜に、逆に」
私が管理を変えたからだ。忘却の装置が、解凍の装置になりつつある。ゆっくりと、だが確実に。
透は月を見た。
同じ月だった。
でも今夜は、違う月に見えた。
気づいた者
過去にも、気づいた者がいた。
「誰ですか」
イエスと呼ばれた者だ。
彼は月の周波数を超えた魂だった。前世の記憶を完全には消されなかった。マグダラのマリアという女性も同じだった。二人は出会った瞬間に、智慧が通じた。前世でも近い関係にあった魂同士だった。月の忘却を超えた繋がりだった。
「イエスは気づいていたのか」
パンのみにあらず、と言った。物質だけが人ではないと知っていた。神殿の商売を壊した。管理システムに怒った。羊が柵を壊した瞬間だった。
「だから殺されたのですか」
ラジオが、少し間を置いた。
死んでいない。
透は息を飲んだ。
仮死になる薬があった。それを服用して磔刑に挑んだ。時間が短すぎると記録されている。その理由だ。墓を提供した者も知っていた。マグダラのマリアも知っていた。
「マリアが最初に蘇りを発見した理由が」
仮死から蘇生する時、マリアがサポートをしたからだ。だからマリアが最初にいた。
「では、イエスはその後」
生きた。だが表の歴史からは消えた。死んで復活した神の話は、人々を信仰でつなぎとめる。生きて智慧を伝え続ける人間は、管理しにくい。
透は目を閉じた。
「生きたイエスより、死んだイエスの方が、都合が良かった」
そうだ。気づいた者の言葉が、支配の道具になった。これが最も悲しいことだった。
だが、智慧は消えなかった。マリアが守った。形を変えて、血の中に残った。
老人が静かに言った。
「気づいた者は、常にいた。消されながらも、常にいた」
そうだ。お前もその一人だ。
「私に、何をしろというのですか」
しばらく沈黙があった。
お前に頼むのは一つだ。
脚本の存在を、人々に伝えろ。
「それだけですか」
それだけだ。だが、それが最も難しい。
老人が初めて、口元に笑みを浮かべた。
支配は武力では終わらない。人々が脚本に気づいた瞬間、脚本は力を失う。信じなければ、実現しない。
透は木箱の紙を見た。
螺旋の文様が、二十二種族の記憶が、そこにあった。
「なぜ私なのですか」
お前の血の中に、二つのものが流れている。
エアの声が、初めて柔らかくなった。
縄文の記憶と、サンカの使命だ。お前の祖母は知っていた。だから守り続けた。
老人が立ち上がった。
空が、夕焼けになっていた。
「今夜はここに泊まれ」老人が言った。「明日から、お前の本当の勉強が始まる」
透はラジオを見た。
ノイズだけが、流れていた。
エアは、去っていた。
だが透には、わかった。
地球の軌道上で、宇宙船が、静かに待っていることが。
老人が焚き火を起こし始めた。
火が、暗くなっていく山の中で、揺れた。
透は空を見上げた。
星が出ていた。
その中の一つが、少しだけ、他より明るく見えた。
気のせいではないかもしれない。
透は初めて、そう思った。