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エピローグ

それぞれの朝

三ヶ月後


コロンボ スリランカ

アルジュナは祖父の家にいた。

縁側に二人で座って、夕日を見ていた。

あの夜から、祖父は詩を唱えなくなった。

唱える必要がなくなったからだと、アルジュナは思っていた。

だが祖父は違うことを言った。

「詩は、もう外に出た。閉じ込めておく必要がない」

アルジュナは祖父を見た。

老人の目が、穏やかだった。

長い使命を終えた目だった。

「じいさんも、知っていたのか。最初から」

「お前が生まれた日から」

「なぜ言わなかった」

祖父は夕日を見たまま言った。

「言葉で伝えられるものではなかった。詩で伝えるしかなかった」

アルジュナは空を見た。

星が出始めていた。

「エアは行ってしまった」

「そうか」

「寂しくないか」

祖父は少し考えてから言った。

「親が子供の自転車を支えるのをやめる時、子供は寂しいか」

アルジュナは答えなかった。

答えがわかっていたから。


祖父がゆっくり立ち上がった。

家の中に入ろうとして、振り返った。

「アルジュナ」

「何」

「詩を、教えろ」

「じいさんが俺に教えてくれたんだろう」

「そうだ。だが今度は、お前が教える番だ。来月から、子供たちに教えろ。タミルの子供たちに」

アルジュナは頷いた。

祖父が家に入った。

アルジュナは一人、夕日の残照の中に残った。

静かに、詩の最初の一節を唱えた。

テムズ川で唱えた時とは、違う声だった。

あの時は使命だった。

今は、歌だった。


ニューメキシコ 砂漠

レイニーは祖母の家を片付けていた。

三日かかった。

物が多かった。

先祖から受け継いだものが、部屋の隅々に詰まっていた。

土器。羽根。石。布。

全部、捨てなかった。

全部、意味があると思った。

今は意味がわからなくても。

石板は、砂漠の地下に戻した。

必要な情報は、全員の血の中に入った。

石板はもう、隠す必要がなかった。

だが、戻した。

「ここが、お前の場所だから」

石板に言った。

石板は答えなかった。

でも、受け取った気がした。


祖母の家の修繕が終わった日の夜、レイニーは外に出た。

砂漠の夜空は、相変わらず星が多かった。

明るい星は、もうなかった。

レイニーは先祖の言葉で、空に向かって言った。

翻訳すれば、こうなる。

行ってしまったか。でも、ここにいた証拠は残った。私たちの血の中に。

砂漠の風が吹いた。

温かかった。

十一月の砂漠に、温かい風は珍しかった。

レイニーは目を閉じた。

風の中に、何かを感じた。

声ではなかった。

気配だった。

まだいる。ただ、形が変わっただけだ。

レイニーは目を開けた。

砂漠が、暗闇の中で広がっていた。

家の中に戻った。

祖母が生きていた頃と同じように、台所で火を使って、食事を作った。

それだけのことが、今夜は特別だった。


オスロ ノルウェー

エリックは論文を書き直していた。

三回目の書き直しだった。

最初の論文は、証拠で固めた論文だった。

二回目は、証拠と感覚を混ぜた論文だった。

三回目は、違うものを書こうとしていた。

学術論文ではなかった。

本だった。

タイトルはまだ決まっていなかった。

ただ、最初の一行は決まっていた。

エリックはキーボードを叩いた。

私は歴史学者として三十年生きてきた。だが本当の歴史は、本の中にはなかった。血の中にあった。

エリックはその一行を見た。

学術的ではなかった。

証拠もなかった。

だが、本当のことだった。

エリックは続きを書いた。

止まらなかった。

窓の外に雪が降り始めた頃も、止まらなかった。

夜中の二時になっても、止まらなかった。


翌朝、エリックは研究室に行った。

学生が三人、廊下で議論していた。

エリックが来ても止まらなかった。

「先生、聞いてください。ヴァイキングの航路と、縄文海進の時期が重なるんです。偶然じゃないと思うんですけど」

エリックは立ち止まった。

三ヶ月前なら、笑っていた。

今は、笑わなかった。

「詳しく聞かせろ」

三人の目が輝いた。


メキシコシティ メキシコ

ソフィアは地下室を出た。

初めて、地下室を出た。

正確には、出られるようになった。

生まれてから二十八年、自分の肌の色を恥じていた。

緑がかった白い肌を、厚い化粧で隠していた。

長袖しか着なかった。

夏でも。

ローマから帰った翌日、ソフィアは鏡を見た。

いつもと同じ鏡だった。

いつもと同じ顔だった。

だが、見え方が違った。

これは呪いではない。

エアの言葉が来た。

何世代も前、一人の女性が決めた。この血を、支配のために使わないと。

ソフィアは化粧を落とした。

素顔を見た。

緑がかった肌が、ランプの光の中で、奇妙に美しかった。


翌日、ソフィアは長袖ではない服を着た。

近所の市場に行った。

誰かが振り返るかと思った。

誰も振り返らなかった。

一人のおばあさんが、ソフィアの腕を見て言った。

「綺麗な肌だね」

ソフィアは何も言えなかった。

おばあさんは果物を売り続けた。

ソフィアはトマトを買った。

家に帰って、料理した。

食べた。

美味しかった。

それだけのことが、泣けるほど普通だった。


ジュネーブ スイス

コンラートは地下室にいた。

スクリーンは消えていた。

電源を落としたのではなかった。

信号が、なくなっていた。

ネットワークが、機能しなくなっていた。

コンラートは椅子に座っていた。

何時間も、座っていた。

部下が来て、報告しようとした。

コンラートは手を上げて、止めた。

部下が去った。

コンラートは一人になった。

何千年分の記憶があった。

支配の記憶だった。

命令の記憶だった。

計画の記憶だった。

だが今、命令がなかった。

計画が止まっていた。

コンラートは初めて、何もしない時間を持った。

奇妙だった。

怖くはなかった。

ただ、奇妙だった。


コンラートは立ち上がった。

地下室を出た。

廊下を歩いた。

建物を出た。

外に出たのは、いつぶりかわからなかった。

ジュネーブの朝だった。

湖が見えた。

アルプスが見えた。

冷たい空気だった。

コンラートは立ち止まった。

空を見た。

青かった。

何千年も生きてきて、空を見たことがなかった気がした。

いや、見ていた。

だが、見ていなかった。

コンラートは長い息を吐いた。

白い息が、冬の空気の中に消えた。


部下が後ろから来た。

「コンラート様、次の指示を」

コンラートは空を見たまま言った。

「ない」

「は」

「次の指示はない。各自、解散しろ」

「しかし、計画が」

「計画は終わった」

コンラートは振り返った。

部下が困惑していた。

コンラートは初めて、部下の顔を、顔として見た。

四十代の男だった。

疲れていた。

長い間、指示書通りに生きてきた人間の疲れだった。

「お前は何がしたかった」

コンラートが聞いた。

部下が固まった。

「何がしたかった、と聞いている。この仕事でなければ」

「そんなこと、考えたことが」

「考えろ。今から考えろ」

コンラートは湖の方向へ歩き始めた。

部下が後ろで立ったまま、動けなかった。

コンラートは振り返らなかった。

湖まで歩いた。

水面を見た。

自分の顔が映っていた。

老人の顔だった。

何千年も生きた顔だった。

疲れた顔だった。

コンラートは水面に向かって言った。

誰に言うでもなく。

「終わりにしよう」

水面が、風で揺れた。

自分の顔が、揺れて、消えた。


東京

透は休日の朝、奥多摩に来ていた。

社の前に座って、山を見ていた。

弥山はいなかった。

だが、社は綺麗だった。

誰かが掃除していた。

透は目を閉じた。

耳を開いた。

山の音が聞こえた。

鳥が三種類。

風が西から。

水が東に三百メートル。

そして。

人の気配が一つ。

北から来ていた。

透は目を開けた。

木々の間から、人が来た。

若かった。

二十代前半だった。

男だった。

バックパックを背負っていた。

透を見て、止まった。

「あの、ここ、どうやって来たんですか。地図に載ってなくて」

透は立ち上がった。

「足に任せて来ると、着きます」

男が首を傾げた。

「足に任せて?」

「迷いましたか」

「めちゃくちゃ迷いました。でもなんか、体が勝手に」

透は男を見た。

目が、普通ではなかった。

何かを探している目だった。

ずっと探してきた目だった。

「座りますか」

透は社の前を示した。

男は少し躊躇って、座った。

二人で、山を見た。

しばらく沈黙があった。

男が言った。

「なんか、ここ、落ち着く」

「そうですね」

「なんでだろう」

透は空を見た。

青かった。

「覚えているからだと思います」

「何を」

「ここに来たことがあるから」

「いや、初めてなんですけど」

透は笑った。

「そういう意味じゃないんですが」

男が首を傾げた。

透は続けた。

「名前、聞いていいですか」

「山下です。山下拓海」

透は頷いた。

「山路透です。透と呼んでください」

「透さんは、ここに何しに」

「友人に会いに。でもいなかったので、待っています」

「友人というのは」

「弥山という人です。山に住んでいる」

山下が目を細めた。

「弥山って、もしかして、老人ですか。白髪で、背筋が真っ直ぐで」

透が山下を見た。

「知っているのですか」

「知っているというか、夢に出てくる。ずっと。会ったことないのに」

透は山下を、もう一度見た。

目が。

何かを探している目が。

透は思った。

また始まる。

嫌だとは思わなかった。

むしろ。

そうか。まだ続くのか。

と思った。

それが、嬉しかった。


透はポケットから、折り畳んだ紙を出した。

木箱の紙だった。

螺旋と、星と、文様が描かれた紙だった。

山下に渡した。

山下が受け取った。

「これは」

「見たことがありますか」

山下が紙を見た。

しばらく見た。

そして言った。

「夢で見た」

透は頷いた。

「そうですか」

「どういう意味ですか、この文様」

透は山を見た。

どこから話せばいいか、考えた。

始まりから話すしかなかった。

「長い話になりますが」

「時間はあります」

山下が言った。

透は空を見た。

弥山の紙に書いてあった言葉を思い出した。

山はいつでもある。また来い。

透は山下を見た。

「はるか昔、オリオン座の方向で、大きな戦争がありました」

山下が目を見開いた。

透は続けた。

山の中で、静かに、また、話が始まった。



五色の詩 ~ムーの子供たちへ~

あなたのインスピレーションから生まれた物語