世界は、劇的には変わらなかった。
翌朝のニュースは、いつも通りだった。
政治の話。経済の話。芸能の話。
何も変わっていなかった。
だが。
透は出勤電車の中で、気づいた。
人々の目が、少し違った。
スマートフォンを見ていた人が、窓の外を見ていた。
イヤホンをしていた人が、外していた。
虚空を見ていた人が、隣の人を見ていた。
微かな変化だった。
数パーセントの変化だった。
だが、確かにあった。
アルジュナからメッセージが来た。
コロンボの朝市が、今日は何かが違った。人々が笑っていた。理由なく笑っていた。
エリックからメッセージが来た。
研究室の学生が、今日、誰も頼んでいないのに、昨日の続きの議論を始めた。目が覚めている目をしていた。
ソフィアからメッセージが来た。
ローマの広場で、見知らぬ人が私に話しかけてきた。空が綺麗だね、と。ローマ人が見知らぬ人に話しかけることは、あまりない。
レイニーからメッセージが来た。
砂漠に帰る。祖母の家を、ちゃんと片付けようと思う。それだけのことだが、なぜか今日初めてそう思えた。
透は会社に着いた。
エレベーターで同僚と乗り合わせた。
何も変わらない同僚だった。
だが同僚が言った。
「なんか今日、空気違くない?」
透は笑った。
「そうですか」
「なんか、すっきりしてる感じ。昨日まで頭が重かったんだけど」
透は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
夜、透はホテルの屋上に出た。
ニューヨークの夜景が広がっていた。
スマートフォンに、知らない番号からメッセージが来た。
一度だけ来て、その後、番号は存在しなくなった。
メッセージはこうだった。
「ありがとう。父に伝える。地球は大丈夫だと。エア」
透は空を見た。
明るい星は、もうなかった。
いつの間にか、去っていた。
透は少し寂しかった。
だが、それでいいと思った。
守ってくれる存在がいなくなった寂しさではなかった。
見守っていてくれた存在が、仕事を終えて去った清々しさだった。
自分たちで、やっていける。
透はそう思った。
一週間後。
透は奥多摩に行った。
弥山に報告するために。
社の前に着いた。
弥山はいなかった。
社の中に、紙が一枚あった。
透の木箱の紙と、同じ文様だった。
その下に、一行だけ書いてあった。
弥山の字だった。
「よくやった。山はいつでもある。また来い」
透は紙を折り畳んで、内ポケットに入れた。
木箱の紙と、一緒に。
山を下りながら、透は考えた。
世界は変わったのか。
変わっていないのか。
わからなかった。
数パーセントの変化が、どこへ向かうのか、わからなかった。
全員が目覚めるわけではなかった。
脚本が完全に止まったわけでもなかった。
コンラートが消えたわけでもなかった。
だが。
透は空を見た。
青かった。
ただ、青かった。
オベリスクがない空だった。
網の外の空だった。
これで十分だ。
透は歩いた。
足が、迷わなかった。