五月が終わった。
エマの部屋は、もはや調査室だった。
壁に紙を貼った。付箋を貼った。線を引いた。
左側に、透のブログから拾った言葉。
右側に、イランと黙示録と、ユーフラテスの記事。
毎晩、どちらかを調べた。
気づいたら両方を調べていた。
気づいたら朝だった。
透について、わかったことがあった。
ブログの文体から、三十代前後の男性だと思った。
記事に出てくる固有名詞から、東京在住だと思った。
縄文とサンカに異様に詳しかった。
そして一度だけ、こんな一文があった。
「祖母から木箱を受け取った日から、世界の見え方が変わった」
木箱。
エマはその言葉に付箋を貼った。
何の木箱か。
中に何があったのか。
ブログには書いていなかった。
イランについて、新しいことがわかった。
攻撃を受けた地域の地図を印刷して、壁に貼った。
核施設の場所に赤い丸をつけた。
軍事基地の場所に赤い丸をつけた。
それから、遺跡の場所に丸をつけた。
青で。
眺めた。
しばらく眺めた。
青い丸が、多すぎる。
核施設でも、軍事基地でもない場所が、攻撃されていた。
副次的な被害、と専門家は言っていた。
でもエマには、副次的に見えなかった。
地図の上で、青い丸を線で結んだ。
線が、形になった。
何かの形に、似ていた。
何に似ているのか、すぐにはわからなかった。
その夜、聖書を開いた。
黙示録ではなかった。
創世記。二章。
「第四の川はユーフラテスである」
エデンの園から流れ出る四本の川。
エマはノートに四本の川を書いた。
ピション。ギホン。チデケル。ユーフラテス。
地図で場所を調べた。
現在のイラク、イラン、トルコの周辺に重なった。
攻撃された地域と、重なった。
エマは鉛筆を置いた。
手が、少し震えていた。
六月の最初の週。
透のブログを、また最初から読んだ。
十二本目の記事。
「行ってくる。」
今度は、その投稿時間を見た。
午前三時だった。
深夜に、「行ってくる。」とだけ投稿して、消えた。
エマは自分のスマートフォンを見た。
今の時刻は、午前二時五十分だった。
偶然だった。
でも、偶然とは思えなかった。
透、あなたは今どこにいるの。
声に出さずに、思った。
答えは、当然なかった。
部屋の壁の、左側と右側を見た。
透とユーフラテス。
二本の糸は、まだ繋がっていなかった。
でも、近づいている気がした。
確実に、近づいている。
窓の外が、少し明るくなり始めていた。
エマは聖書を閉じた。
コーヒーを淹れようと、立ち上がった。
今日も仕事がある。
それでも、やめられなかった。
やめる理由が、どこにもなかった。
忘却
六月の中頃。
深夜だった。
エマはまた調べていた。
今夜の問いは、一つだった。
なぜ、人間は何度思い出しても、また忘れるのか。
計画が何千年も続く理由がわからなかった。
気づく人間は、昔からいたはずだった。
でもなぜ、世界は変わらないのか。
検索した。
月の周波数と人間の脳波の関係。
シューマン共振の変化。
2012年以降の地球の周波数の上昇。
古代文献の中の月の記述。
読んだ。
また読んだ。
一つの論文に行き着いた。
月は自然にそこにあったのではない、という内容だった。
設置された、という説だった。
忘却のために、という説だった。
土星の周波数を月を介して地球へ送る。
輪廻転生の瞬間に最も強く作用する。
生まれ変わるたびに、前世の記憶が消える。
白紙の赤ちゃんとして、また一から始まる。
エマの手が、止まった。
忘却は、装置だった。
聖書を開いた。
詩篇二十三篇。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」
長い間、見た。
羊飼い。
羊。
羊飼いとは、管理する者のことだったのか。
羊とは、記憶を消された人のことだったのか。
別のページを開いた。
ヨハネ福音書。
イエスが神殿の商売を壊した場面。
なぜイエスは怒ったのか。
商売が嫌いだったのではない。
気づいていたからだ。
管理されていることに。
月の周波数を超えた魂だったから。
前世の記憶を消されなかった魂だったから。
マグダラのマリアも同じだった。
二人は出会った瞬間に、智慧が通じた。
前世でも近い関係にあった魂同士だった。
エマは聖書を閉じた。
窓の外を見た。
月があった。
満月だった。
じっと見た。
綺麗だった。
ずっと綺麗だと思っていた。
でも今夜は、違う目で見た。
そして気づいた。
原っぱの朝。
あの時、月が沈んだ直後だった。
周波数が、一瞬届かなかった。
その隙間に、ダウンロードが来た。
私が気づけたのは、偶然ではなかった。
2012年以降、装置が弱まっていた。
誰かが、管理を変えていた。
エマはノートを開いた。
書いた。
イエスは気づいた者だった。
私も、気づいた者になった。
同じだった。
時代が違うだけで、同じだった。
信仰は壊れなかった。
深くなった。
イエスが何に気づいたのかを、今夜初めて、知った気がした。