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第十章

放つ

その夜、エレズは書斎に入った。

ミリアムはもう眠っていた。

静かな家だった。


パソコンを開いた。

デバイスを繋いだ。

ファイルを確認した。

膨大だった。

文書の数は、三千を超えていた。

創設から現在まで。

七十年以上の記録だった。


エレズは全部は読まなかった。

読む時間はなかった。

でも、いくつかのファイルを開いた。


一つ目。

創設期の文書だった。

七十年以上前の文書だった。

書いた人間の名前があった。

エレズは知らない名前だった。

でも、内容は知っていた。

計画の根拠だった。

聖書の引用が並んでいた。

黙示録。ダニエル書。エゼキエル書。

そして最後に一行。

「神の意志を、人の手で実現する」


エレズは画面を見た。

神の意志を、人の手で実現する。

七十年以上前に、誰かがそう決めた。

神に聞いたわけではなかった。

人間が、決めた。

人間が、神の意志だと決めた。


二つ目のファイルを開いた。

遺跡のリストだった。

エレズが作ったリストではなかった。

もっと古いリストだった。

三十年以上前に作られていた。

エレズが生まれる前から、遺跡は標的だった。


三つ目のファイルを開いた。

名前のリストだった。

政治家。軍人。金融家。メディア。

国籍はバラバラだった。

イスラエルだけではなかった。

アメリカ。イギリス。フランス。

そして、日本の名前もあった。


エレズはリストを閉じた。

深く息を吸った。


透にファイルを送った。

エマにファイルを送った。

暗号化した通信で送った。

それから、メディアのリストを開いた。

透と事前に決めていたリストだった。

複数の国。複数の言語。複数のメディア。

同時に送る。

一つでは潰せる。

でも、全部は潰せない。


送信ボタンの前で、少し止まった。

これを押せば、戻れない。

三十年間いた場所に、戻れない。

ヨナタンとも、戻れない。

組織とも、戻れない。


戻りたいか、と自分に聞いた。

答えは、なかった。

戻りたいとも、思わなかった。

戻りたくないとも、思わなかった。

ただ、前があった。

前だけがあった。


送信した。


画面に、送信完了の表示が出た。

静かだった。

劇的なことは、何もなかった。

ただ、ファイルが、世界へ向かった。


スマートフォンが鳴った。

透からだった。

「受け取りました。エマさんの記録も、同時に送りました」

次にエマからだった。

「送りました。あとは、待ちます」


エレズはパソコンを閉じた。

書斎の窓を開けた。

テルアビブの夜風が入ってきた。

地中海の匂いがした。

遠くで、波の音がした。


ミリアムの声がした。

「エレズ、まだ起きてるの」

「もうすぐ寝る」

「何かあった?」

エレズは少し考えた。

「終わった」と言った。

「何が」

「長かったことが」

ミリアムは黙った。

しばらくして、言った。

「おやすみ」

「おやすみ」


翌朝

執務室に来た。

画面を開いた。

いつも通りだった。

でも、世界は動いていた。


ニュースが流れ始めていた。

最初は小さかった。

一つのメディアが記事を出した。

次に別のメディアが出した。

また別のメディアが出した。


エレズは画面を見た。

淡々と見た。


ヨナタンが来た。

足音が速かった。

いつもと違った。

扉を開けた。

顔が、いつもと違った。

値踏みする目ではなかった。

別の目だった。


「エレズ」

「はい」

「文書が、外に出た」

「知っています」

ヨナタンは止まった。

「知っている」

「私が出しました」


沈黙があった。

長い沈黙だった。

ヨナタンはエレズを見た。

三十年間、見てきた目だった。

でも今日は、違う目だった。

初めて見る目だった。


「なぜだ」

エレズはヨナタンを見た。

三十年間、尊敬してきた人間だった。

今も、嫌いではなかった。

「間違っていたからです」

「何が間違っていた」

「計画が、神の意志だと思っていました」

「そうだろう」

「違いました」

「何が違う」

「人間の意志でした」


ヨナタンは動かなかった。

長い間、動かなかった。

窓のない部屋だった。

光のない部屋だった。


「お前は終わりだ」とヨナタンは言った。

静かな声だった。

怒鳴らなかった。

それが、かえって重かった。

「わかっています」とエレズは言った。

「後悔するぞ」

「しないと思います」

「なぜ」

エレズは立ち上がった。

机の引き出しを開けた。

カバラの文献を取り出した。

日本から帰ってきた日に、持ってきていた。

杉のページを開いた。

ヨナタンに見せた。

「エレズは天と地を繋ぐ。根は地に、梢(こずえ)は天に。その間に立つ者は、両方を見ることができる」


ヨナタンは文献を見た。

読んだ。

顔が、少し変わった。

何かが、動いた。

一瞬だけ、動いた。


「ヨナタン」とエレズは言った。

「なんだ」

「あなたも、知っているはずです」

「何を」

「同じだということを」


ヨナタンは文献をエレズに返した。

顔が、また元に戻った。

鋭い目に戻った。

「連行する」

「わかりました」


エレズは文献を持った。

立ち上がった。

窓のない部屋を、最後に見た。

三十年間いた部屋だった。

光がなかった。

でも今日は、それでいいと思った。

光は、外にあった。


廊下を歩いた。

ヨナタンが後ろにいた。

非常口の前を通った。

外の空気を吸いたかった。

でも、通り過ぎた。


スマートフォンを取り出した。

最後のメッセージを送った。

透とエマに、同時に。

「終わりました。あとは頼みます」


すぐに返信が来た。

透から。

「わかりました」

エマから。

「ありがとう」


たった二文字だった。

でも、重かった。

十分だった。


その頃

東京。

エマの部屋。

ニュースが流れていた。

画面の中で、文書の内容が報道されていた。

アナウンサーが言った。

遺跡。座標。計画書。七十年以上の記録。


エマはテレビを見た。

三月の朝、同じようにテレビを見ていた。

あの朝と同じ場所に座っていた。

でも、違う目で見ていた。


スマートフォンを見た。

エレズからのメッセージを見た。

「終わりました。あとは頼みます」


エマは画面を閉じた。

窓の外を見た。

六月の雨が降っていた。

静かな雨だった。


聖書を開いた。

黙示録ではなかった。

最初のページだった。

創世記。一章。

「初めに、神は天と地を創造された」


天と地。

同じものが、形を変えて、あった。

ずっとあった。


エマは聖書を閉じた。

ノートを開いた。

ペンを持った。

書き始めた。


記録だった。

エレズの記録だった。

三十年間、空にいた人間が、地上に降りた記録だった。

名前は、エレズ。

ヘブライ語で、杉。


同じ頃

奥多摩。

透は山を歩いていた。

一人だった。

祠の前に来た。

座った。

記号を見た。

螺旋を見た。


スマートフォンを見た。

ニュースが流れていた。

文書の件が、世界中で報道されていた。

英語。フランス語。アラビア語。日本語。

同じ内容が、違う言葉で、世界中に流れていた。


透は祠の記号を見た。

螺旋の中心を見た。

外へ広がる螺旋を見た。

中心から、外へ。

一本の線が、繋がっていた。

切れていなかった。


川の音がした。

鳥の声がした。

風が吹いた。

杉が揺れた。


透はスマートフォンを閉じた。

空を見た。

木々の間から、青い空が見えた。

雲があった。

でも、光があった。

雲の向こうに、確かに光があった。