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第十章

ユーフラテスへ

成田空港は、いつも通りだった。

人が歩いていた。アナウンスが流れていた。売店でサンドイッチを売っていた。

世界が普通に動いていた。

エマだけが、普通ではない場所へ向かっていた。


バグダッドまで、乗り継ぎで十八時間だった。

機内で眠れなかった。

窓の外は暗かった。

ノートを開いた。

透のブログから書き写した言葉を、また読んだ。

「星座は地上に写される。古代人はそれを知っていた。現代人は忘れている」

忘れている。

エマは窓の外を見た。

雲の上に、星があった。

オリオンだった。

三つ星が、はっきり見えた。


バグダッドの空港は、思ったより普通だった。

戦争の匂いはなかった。

少なくとも、空港には。

現地のガイドが待っていた。

四十代の男性だった。英語が話せた。日本人の依頼は珍しいと言った。

村の名前を見せた。

男性の顔が、少し変わった。

「その村は、遠いです」

「行けますか」

「行けます。でも、なぜその村へ」

「人を探しています」

男性は少し考えた。

それから、うなずいた。

「わかりました」


バグダッドから車で南へ向かった。

砂漠だった。

地平線が、果てしなかった。

日本にはない景色だった。

でもエマには、初めて来た気がしなかった。

夢で見た景色に、似ていた。


三時間走ったところで、川が見えた。

ガイドが言った。

「ユーフラテスです」

エマは窓に顔を近づけた。

広かった。

茶色がかった水が、ゆっくり流れていた。

でも。

「水が、少ない」

「昔はもっとありました」とガイドが言った。「今は、半分以下です」

半分以下。

枯れてしまった。

黙示録の言葉が、頭の中で鳴った。


村に着いたのは夕方だった。

小さな村だった。

泥でできた家が並んでいた。

子供たちが走り回っていた。

ガイドが村人に話しかけた。

アラビア語だった。エマにはわからなかった。

しばらして、ガイドが振り返った。

「日本人が来たことがあるか、聞きました」

「いましたか」

「二年前に、若い男が来たと言っています」

エマの心臓が跳ねた。

「今も、いますか」

ガイドがまた話しかけた。

村人は首を振った。

それから、何か言った。

ガイドの顔が、少し曇った。

「どうしました」とエマは聞いた。

「その男は、村の外れに住む老人に会いに来たと言っています」

「老人?」

「この辺りでは有名な人らしいです。色々なことを知っている、と。でも」

「でも?」

「その老人は、去年亡くなったそうです」


沈黙があった。

夕風が吹いた。

ユーフラテスの方から来る風だった。

乾いていた。


エマは村の外れを見た。

砂漠の向こうに、夕日が沈んでいた。

オレンジと赤と、少しの紫。

どこまでも続く空だった。

「老人が住んでいた場所へ、行けますか」

ガイドは村人に聞いた。

村人はうなずいた。


村の外れに、小さな家があった。

誰もいなかった。

でも、鍵はかかっていなかった。

ガイドが村人に許可を取った。

エマは中に入った。

薄暗かった。

質素な部屋だった。

本が積んであった。

アラビア語の本。古い本。

壁に、何かが貼ってあった。

紙だった。

古い紙に、記号が描かれていた。

螺旋と、星と、見たことのない文様。

奥多摩の祠と、まったく同じ記号だった。


エマはその紙の前に立った。

日本の山奥の祠と、ユーフラテスのほとりの村。

同じ記号が、あった。

透はここへ来た。

この記号を見た。

この老人に会った。

そして、何を知ったのか。


部屋の隅に、小さな木箱があった。

エマはしゃがんだ。

蓋を開けた。

中に、紙が一枚あった。

日本語だった。

エマは息を飲んだ。

読んだ。

「エマへ」